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松代大本営のある長野県埴科郡松代町の「松代町」と「松代藩」についてウィキペディアで調べていきました。松代町は、かつて長野県埴科郡に存在した町で、現在は、長野市松代地区となっています。江戸時代には松代藩の城下町で、明治期には製糸業が盛んでした。

 

松代藩は、江戸時代、信濃国埴科郡松代町にあった藩で、信濃国内の藩では最高の石高を有しました。藩主には、酒井家、越前松平家、真田家が就いていました。信濃国内の藩では最高の石高があったということは、価値あるものが存在していたと感じます。

 

松代藩のウィキペディアを見ていくと過去世で縁があると感じた「佐久間象山」が気になりました。佐久間象山(1811-1864)は、江戸時代後期の松代藩士、兵学者・朱子学者・思想家です。1811(文化8)228日、信濃松代藩士・佐久間一学国善の長男として信濃埴科郡松代字浦町で生まれます。

 

象山は江戸に出て、当時の儒学の第一人者・佐藤一斎に詩文・朱子学を学びます。大砲の鋳造に成功し西洋砲術家としての名声を轟かすと、蘭学を背景に、ガラスの製造や地震予知器の開発に成功し、さらには牛痘種の導入も企図していたといいます。

 

江戸の木挽町に「五月塾」を開き、勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬ら後の俊才に砲術・兵学を教えました。象山は一橋慶喜に招かれて上洛し、慶喜に公武合体論と開国論を説きました。1864(元治元年)711日、京都三条木屋町で尊皇攘夷派の前田伊右衛門、河上彦斎等の手にかかり暗殺されます。

 

ウィキペディアには、象山の出自について「佐久間象山が自ら著した『佐久間氏略譜』によると家系は桓武平氏であり、桓武天皇の曾孫である高望王の末裔に佐久間家村という者がいた」と記されており、この意味が後に分かっていきます。

 

佐久間象山の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「松。術」と伴侶が伝えて来ました。佐久間象山は、闇の役割であり、松利権に絡んでいたと感じます。また、松代大本営のウィキペディアの跡地利用の箇所に、児童養護施設のことが書かれていました。

 

1946年、埴科郡仏教会が旧大蔵省より舞鶴山のIV号舎(仮御座所)の払い下げを受け、児童養護施設恵愛学園とする。」と記載されていました。どうして松代大本営跡の一部が児童養護施設に譲渡されたのか、不思議に思いました。

 

「仮御座所」(仮の皇居)となる予定だった建物を埴科仏教会の約70の寺院が借りて19469月に創設した「戦災孤児収容施設」が前身でした。 施設は翌19473月、東京都から20人超を受け入れ、同8月に長野県から認可を受けたといいます。

 

松代大本営の建物の一部を埴科仏教会に払い下げられて、戦災孤児収容施設として創設されたことが鍵になります。《歴史の中の子供たち 野上の浮浪児》には、「アサヒグラフに見る昭和の世相‐6」(朝日新聞社刊)の記事と戦争孤児の写真が掲載されています。

 

松代大本営跡の一部を払い下げられた児童養護施設のトップに光を降ろすと「松の元締め」と伝えられました。児童養護施設も松利権のネットワークに入っているようです。松代大本営は、松利権を実践するための秘密の地下施設だったことが推測されます。(つづく)