大日本帝国軍の最高統帥機関の大本営は、日清戦争において初めて設置されました。大本営は1894年6月5日に東京の参謀本部内に設置され、同年8月5日に皇居内に移りました。同年9月13日に広島に移り、9月15日に明治天皇が広島大本営に入っています。
1895年4月27日に大本営を広島から京都に移転しました。1894年7月25日から1895年4月17日までの日清戦争の期間だけ広島に大本営が置かれていたことになります。その後、1896年(明治29年) 4月1日 に大本営は解散されました。
大本営が広島から京都に移されたことが疑問でした。ネットで調べていくと《「古都」京都と天皇制の可視化》の文献がありました。
広島から京都に大本営が移された理由としては、「平安遷都千百年紀念祭」と「第四回内国勧業博覧会」のためだったようです。
「1895年(明治28年)、日清戦争の勝利と戦後処理 が世間を賑わす中、紀念祭と博覧会は開催された。博覧会は4月1日から 7月31日まで行われ、会期中には広島から京都に大本営が移り、天皇が行幸する
など、全国的にも注目され、総入場者が約113万6千人という盛況を見せた。」と記されていました。
《平安遷都千百年記念祭と平安神宮の創建》によると、平安神宮が1895年(明治28年)1月に竣工し、3月15日に鎮座祭が行われました。平安遷都を行った天皇であった第50代桓武天皇を祀る神社として創祀されたといいます。
平安神宮は、京都府京都市左京区にある神社で、祭神は桓武天皇、孝明天皇です。ウィキペディアには、「1895年(明治28年)4月1日に平安遷都1100年を記念して京都で開催された内国勧業博覧会の目玉として平安京遷都当時の大内裏(だいだいり)の一部復元が計画された。」とありました。
「大内裏」は、平安京における宮城内の天皇在所である内裏であり、村上天皇の日記(村上天皇御記、天暦御記)によると、元は秦河勝の邸宅があった場所であるといいます。やはり、天皇と秦氏は繋がっていると感じます。
大本営が京都に移された際の天皇の住まいは、「京都御所」だと思いました。京都御所は平安京の里内裏が起源です。ネットで調べると《京都御所には謎の地下室が?》があり、地下施設と繋がりました。「御所の何処かに地下に続く階段があるらしく、地下では何かが行われているらしい。」
「学者が御所の立入調査を度々求めたが、皇室の尊厳を侵すという理由で認められない」「戦前、警護官が階段の下に降りていったが、その後行方不明になった。」「同じく御所近くの大学の地下に通路を見つけた学生も亡くなってしまった」と記載されています。
その他にも、ボーリングデータによる透水性分布図などの説明があり、「京都の地下は琵琶湖に匹敵するほどの巨大な水瓶である」ことが記されています。京都は水の場所という光の地である故に、松果体摂取の闇が置かれて封じられてきたと思います。
天皇が存在する都は、松利権を有する支配者の拠点であり、光を封じる闇の役割だったと思います。平安遷都から日本の都であった京都の真の姿を知るために、桓武天皇、平安神宮の他にも八坂神社、祇園祭、五山の送り火などの真実を探求する必要があると感じます。(おわり)