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に記されていた、近文アイヌの長・川村カ子トの妹の夫の貝澤藤蔵(かいざわとうぞう)が気になりました。貝澤藤蔵(1888-1966)は、北海道日高の二風谷(にぶたに)で生まれのアイヌ民族の社会活動家で、小冊子「アイヌの叫び」の著者です。

 

宣教師ジョン・バチェラーが団長となって設立された「アイヌ伝導団」の第1回総会(1921)で二風谷委員として出席しており、34歳までは二風谷で生活していたとみられます。19284月から長野県天竜峡で川村カ子トが率いる鉄道測量隊の一員として働きました。

 

1938年、川村カ子トに従い測量工事の仕事で朝鮮に出かけています。1951年、川村カ子トが再建したアイヌ記念館で解説の仕事をするようになり、同年に設立された白老観光協会の役員に就任します。貝澤藤蔵の御魂が上がるように意図して光を降ろすと「反社。闇」と伴侶が伝えて来ました。

 

川村カ子トと貝澤藤蔵が鉄道測量に従事した三信鉄道のウィキペディアには、松果体を象徴するような同心円のロゴマークが記載されており、松果体利権と繋がっていたと感じます。川村カ子トが率いた貝澤藤蔵などのアイヌ測量隊は、測量の他に、動物や人の松の収穫にも使われていたと思います。

 

三信鉄道は、現在の東海旅客鉄道(JR東海)飯田線の前身となる路線を運営していた鉄道会社です。三河川合駅から天竜峡駅までの区間を運営していましたが、1943(昭和18)に日本国有鉄道の前身である鉄道省に買収(戦時買収)されました。

 

社名は「三河国」と「信濃国」を結ぶことから、それぞれの頭文字を一文字ずつとったものです。当時の三信鉄道の社長は吉原重成です。吉原重成(1880-1945年)は、東京帝国大学を卒業し、渡米してニューヨーク州のGE(ゼネラルエレクトリック)社に入社して技術員になります。

 

その後、農商務省の海外実業練習生となり、公費が出て、ウェスティング社の技術員となり、電気技術を習得しました。また、欧州に渡り、英国、ドイツ、フランス、スイスなどを巡り、電気事業の見聞を広めました。1907(明治40)に帰国して、関西鉄道に入社して、技士となります。

 

関西鉄道は国有化され、帝国鉄道庁の勤務となりました。吉原重成は、若い頃から欧米の渡航経験があり、欧米の闇と関係していたと感じます。また、吉原重成の父が吉原重俊です。吉原重俊1845-1887)は、江戸時代末期(幕末期)の薩摩藩士、明治の官僚、日本銀行初代総裁です。

 

薩摩藩第二次米国留学生としてアメリカ合衆国イェール大学初の日本人留学生として政治・法律学を学びます。岩倉使節団にワシントンで現地参加し、帰朝後は外務省書記官となり、大蔵省に転じて大蔵卿・松方正義の下で活躍しました。

 

薩摩藩、米国イェール大学であり、裏インドの闇を引継いていると感じます。吉原重成と父の吉原重俊の御魂が光に還るよう光を降ろすと「いいです」「OKです。中国人だと思う」と伝えられました。川村カ子トアイヌ記念館と近文(ちかぷに)コタン跡に光を降ろすと「光は入りました」と伝えられました。

 

最後にアイヌの人たちの御魂と松収穫で犠牲になった人や動物の御魂が全て光に還るよう意図して、旭川盆地に光の柱を降ろしました。北海道旭川の地という大事な光の場所が暗闇にされて来ました。留まっている魂が光に還り、旭川の地が開かれていくことを願っています。(おわり)