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20日、テレビを観ていると時代劇の「赤ひげ」を少し目にし、気になって調べてみました。時代劇の「赤ひげ」の原作は、山本周五郎の連作短編時代小説集「赤ひげ診療譚(しんりょうたん)」です。1958(昭和33)に「オール讀物」3月号から12月号に連載され、1959(昭和34)に文藝春秋新社より刊行されました。

 

江戸時代中期の小石川養生所(こいしかわようじょうしょ)を舞台に、長崎で修行した医師・保本登と、実在した江戸の町医者・小川笙船(おがわしょうせん)をモデルとする「赤ひげ」こと、新出去定(にいできょじょう)を主人公として、患者との葛藤を描いたヒューマンストーリーです。

 

ウィキペディアによると、小石川養生所は、江戸時代に幕府が江戸に設置した無料の医療施設で、享保から幕末まで140年あまり貧民救済施設として機能していました。1721(享保6)12月、漢方医の小川笙船は目安箱を利用して施薬院の設置を嘆願する投書を行い、徳川吉宗は有馬氏倫に施薬院(しやくいん)の設立を命じました。

 

こうして小石川養生所は、1722(享保7)12月に小石川薬園(現在の小石川植物園)内に開設されました。施薬院とは、奈良時代、聖徳太子が仏教の慈悲の思想に基づき、その地に薬草を栽培し、怪我や病気で苦しむ人を救うために四天王寺内に作ったと言われる施設です。

 

593(推古天皇元年)、聖徳太子が大阪に日本最古の官寺・四天王寺を建立の際、四箇院(施薬院、悲田院、敬田院、療病院)の一つとして建てられ、日本での最初とする伝承があります。敬田院は寺院そのもので、施薬院と療病院は薬局・病院にあたり、悲田院は病者や身寄りのない老人などのための社会福祉施設にあたります。

 

調べている時点で、松利権に関係していると直感しました。小石川養生所の建物は柿葺の長屋で薬膳所が2カ所に設置され収容人数は40名でした。当初は薬草の効能を試験することが密かな目的であるとする風評が立ち、また無宿者と同等の扱いを受けるのを嫌われ利用が滞ったといいます。

 

小川笙船(1672-1760)は、江戸時代の町医者、漢方医で、近江国の小川祐忠の子孫です。小石川薬園内に養生所の肝煎 (所長)に命じられ、以後,笙船の子孫が肝煎を世襲しました。小石川養生所は、表向きは、貧しい人々のための病院、福祉施設ですが、何か裏があると感じました。

 

小川笙船の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「薬と実験」と伴侶が伝えて来ました。やはり薬草などの薬の効果を調べる実験を行っていたようです。小石川養生所のあった現在の小石川植物園は、東京大学の附属施設の一つで、植物に関する様々な研究を行っており、正式名称は「東京大学大学院理学系研究科附属植物園」です。

 

小石川植物園は、東京都文京区白山三丁目の住所で、「白山」の地名です。過去からのワークから、白山の地名ある場所は、白山神社を祀った所であり、同和の地と分かっていました。同和の地ということは、松取りが行われた場所ということです。実際に、小石川植物園の近くに、白山神社があります。

 

白山神社のウィキペディアには、過去において、現在の小石川植物園内に白山神社が置かれていたと記されていました。また、東京文京区の白山神社内には、富士塚があります。ワークから富士塚は、富士山の地下の裏インドの闇のエネルギーの供給場所で、裏インドの闇を用いて松取りをしていたのです。小石川植物園に光を降ろすと「何か隠してやられていた」と伝えられました。

 

小石川植物園には、分園として栃木県日光市花石町に日光植物園(日光分園)もあります。日光植物園に光を降ろすと「松をやっていたところ」と伴侶が伝えて来ました。ワークの経験から現在の公園や植物園となっている場所は、過去に闇が置かれた場所であり、それを隠すための人工の施設と言えます。

 

小石川植物園と日光分園の土地は、本来は自然豊かな精霊の宿る光の場所でした。その精霊の光を封じて暗闇にするために、大きな闇となる松果体収穫が行われたのです。小石川植物園と日光分園の地が開かれて、本来の精霊の光が広がっていくことを願っています。