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29()、伴侶が受信したメールに不可解な点があり、もしかしたらサインなのかもしれないと感じました。サインだとするとメールの差出人の名前から「紀州の大きな川の源流」と読み取れました。紀州(和歌山県)の大きな川は、確か「吉野川」と記憶していましたが、ネットで調べてみると、やはりそうで「紀の川(吉野川)」でした。

 

紀の川(きのかわ)は、奈良県から和歌山県へと流れ紀伊水道に注ぐ一級水系の本流です。奈良県内では奈良県南部の地名「吉野」に因み「吉野川(よしのがわ)」と呼ばれますが、河川名を案内する標識などには水系名である「紀の川」が併記されます。紀の川の源流は、奈良県の大台ケ原山(おおだいがはらやま)でした。

 

大台ヶ原山は奈良県と三重県の県境にある標高1695.1mの山です。グーグルマップで大台ヶ原山を調べると「大台教会」が表示されました(大台ヶ原山 - Google マップ)。「大台ケ原山の山頂にどうして、こんな教会があるのだろう」と思いました。しばらくすると「紀の川を闇にするために、教会を置いて松取りで源流の山を封じた」と感じました。

 

源流の山を闇にすることで川も闇になります。川が闇になると川の流域の土地に闇が広がります。土地を封印するためには、川の源流のある山を闇にすることが重要なのです。大台教会を調べていくと《酒の一滴は大河の一滴》を見つけました。「大台教会」の記事には大台ヶ原山の自然の画像と共に貴重な情報が記載されていました。

 

「奈良県吉野郡上北山村・川上村と、三重県多気郡大台町旧宮川村にまたがる「大台ケ原」は頂上が平坦な台地状の山々から構成されています。有数な多雨地帯でトウヒ、ブナの原生林の残る貴重な森。そして冬は閉ざされるこの森の中に佇むのが大台教会です。「教会」という言葉はキリスト教に限らず、神道や仏教などの伝統宗教や新宗教にも広く使われています。」

 

「「大台教会山の家」「福寿大台ケ原教会」とも呼ばれ、御神体を持たず自然賛美を教義とします。1891(明治24)古川嵩が入山し修業を行う。1899(明治32)福寿大台教会開設。教会本殿、附属建物完成。総工費58,000円は浄財による。神道十三派の一派である神習教分教会となる。1928年牛石ヶ原に神武天皇像建立。1944年教会に陸軍分遣隊駐屯。」とありました。

 

大台ケ原の山頂の教会に陸軍分遣隊駐屯したというのです。過去の調査やワークから、戦時中の日本軍は、日本本土や中国・満州、朝鮮半島、樺太などの占領地にて、地下壕を建設して松取りを行っていたと分かっています。さらに、離島や演習林でも松取りが行われて来たと見ています。

 

松取りの場所としての今回の山頂の教会は初めてでした。いかに人目につかない場所で、秘密裏に松取りが行われて来たのかが分かります。《実利行者の足跡めぐり》には、修験道の行者である「林実利」の大台ケ原山での修業と北海道の名付け親である探検家の「松浦武四郎」の調査についても記されていました。

 

実利行者のように、山で修業する修験道の行者は、人と山の動物の松取りをしていたと感じます。自分の肉体の生命力と精神の霊力を向上させるための松果体摂取です。松取りの証拠を消すために護摩炊きを行うのだと思います。既述のサイトには、松浦武四郎の筆による護摩修行のスケッチが掲載されています。

 

松浦武四郎については《医療の闇の仕組を作った松浦武四郎》に記されています。今思うと医療を隠れ蓑にして日本の松取りの闇の仕組を作った工作員だったと感じます。表の松浦武四郎は探検家としての英雄ですが、裏では暗黒の闇の仕事をしていたのです。昔は松果体収穫の中核は宗教施設でしたが、近代は医療施設に移って行ったと感じます。(つづく)