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実利行者の足跡めぐり》に掲載されている大台ケ原の画像の中で「御手洗池」が気になりました。御手洗池の手前には、「八大龍王碑」と「実利行者碑」が置かれていました。池だとすると松取りの処理が行われた場所と感じました。御手洗池に光を降ろすと「真っ赤になった。裏インド」と伴侶が伝えて来ました。

 

赤は血の色であり、やはり松取りと関係ある場所のようでした。神習教分教会である「大台教会」に光を降ろすと「松取り」と伝えられました。大台ケ原山を封じていた闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「いいです」と伴侶が言いました。修験道の行者である「林実利」と「神習教」について調べていきました。

 

林実利 - Wikipedia》によると、林実利(はやしじつかが)は、幕末から明治時代中期にかけて活躍し、多くの信者に信仰された、金峯山修験本宗の修験道の行者です。1843年、苗木藩領であった美濃国恵那郡坂下村の高部(現岐阜県中津川市坂下町)の百姓の子として生まれます。成長後、御嶽講(御嶽教)に入信します。

 

木曽の御嶽山の黒沢口登山道の千本松で行なわれる御嶽教のお座立て(託宣儀礼)に参加するために登山した際に、龍神より託宣を受けます。1870年~74年、実利行者は大台ヶ原の牛石付近に小屋をつくり、そこを拠点として修行に励みます。また深仙宿、大台ヶ原、怒田宿、那智山での厳しい修行は通算16年間に及びます。

 

庶民のみならず宮家からも信仰されるようになり、有栖川宮より直々に役小角に次ぐ優れた山伏を意味する、「大峯山二代行者実利師」という名号を賜りました。1884年)421日、那智滝の絶頂から座禅を組んだまま滝壺に捨身入定しました。享年42でした。入定して数日後に滝壺より引き上げられ、座禅姿のままであったといいます。

 

神習教 - Wikipedia》によれば、神習教は、美作国(現在の岡山県真庭市蒜山上福田)出身の神道家・芳村正秉(よしむらまさもち)1857年に立教し明治初期の神官教導職分離の時期に組織した神道教派で教派神道十三派の一つです。東京都世田谷区に法人の教庁を置きます。

 

天照大御神をはじめとして神道古典にある天津神、国津神を祀り、古事記、日本書紀ほかを所依の教典とします。当時の神社や神道のあり方に対して問題意識を持っていた正秉が本来の神道の姿に復することを目的として形成され、神代より脈々と流れる伝統的な神道的価値観を教義の柱としています。

 

ウィキペディアには、「大政奉還後、西郷隆盛の紹介により神祇官(後に教部省)に奉職。1873127日には伊勢神宮に禰宜(ねぎ)として奉職」「西郷の紹介により明治天皇に非公式に面会し幾度となく皇居に出向いている」と記されており、芳村正秉と西郷隆盛は松利権で繋がり、深い関係にあったと感じます。

 

西郷隆盛の生誕地から繋がる松利権に関わる支配層の著名人》に書きましたが、西郷隆盛は松利権を有していました。西郷隆盛が生まれた薩摩藩の薩摩国鹿児島城下加治屋町山之口馬場は、大久保利通、東郷平八郎、大山巌、山本権兵衛など多数の著名人を輩出した地であり、松利権の支配を示唆しています。

 

神習教の初代管長は芳村正秉(1839-1915)であり、現在の三世管長(初代教主)は、桜神宮宮司の芳村正德(1964-)です。金峯山修験本宗修験道の行者・林実利と神習教の初代管長、三世管長にそれぞれ光を降ろすと「松取りの修験」「松取り」「ITヤクザ」と伝えられました。松果体利権の闇が統合して、自然が解放されることを願っています。(おわり)