1155px-IndiaPolitical1893ConstablesHandAtlas


森喜朗元首相がトップに就いている法人・団体の中で「日印協会」が一番気になっていました。「印」とは「インド」のことで、過去のヒプノセラピーやワークで「裏インドの闇」というワードを伝えられていました。裏インドの闇は、松果体収穫に伴う一番深い闇だと思います。命を奪う肉体的な苦痛を与えて、それを隠蔽するという極限的な闇と言えます。

 

それ故に「日印協会」は松利権に深く関わっていると直感で分かっていました。公益財団法人日印協会は、1903(明治36)に日本とインドの親善や相互の文化交流をはかる等を目的として、大隈重信らが設立した団体です。1903(明治36)、大隈重信や長岡護美が対印貿易の重要性を認識していた渋沢栄一の後押しを得て設立しました。

 

設立当時、インドはイギリスの植民地であり、インド総督が統治するイギリス領インド帝国でした。明治の近代化を推し進めた先駆者らは、アジアの時代の到来に向けて、アジア諸国のなかでもとくにインドとの通商を重要視していました。大隈や渋沢が意図したのも、英国のインド支配を前提とした関係であり、日英関係のことを指していました。

 

ウィキペディアに興味深い記述があります。「1941(昭和16)828日に、陸軍参謀本部の山内豊秋から、10月末締め切りでビルマやインド地方の情勢調査の依頼があり、「インド方面の地形・資源・産業等を大判でカラー印刷も加えて200頁あまりの資料集」を提出した記録がある。」と記されていました。また、日印協会で専務理事や顧問を務めた三角佐一郎の話も掲載されています。

 

「三角は第二次大戦前の1937年から日印協会で働き、戦時中には旧日本軍の要請でインド情報の収集のため旧ビルマ(現ミャンマー)に派遣され、印北東部インパールも訪れた。独立運動家のチャンドラ・ボースや歴代印首相とも親交があり、モディ首相が2014年に訪日した際には、モディ氏と固く抱擁した。」とあります。

 

ビルマ(現:ミャンマー)やインドで日本軍は松取りをしていたと見ています。甚大な犠牲を出したインパール作戦を含めた大東亜戦争において松果体収穫が行われたと感じます。当時の日印協会は、実質的に日本軍の松取りに協力していたのです。これまでのワークから松取りのための戦争であり、松取りのための医療だと分かっています。

 

日印協会の活動については、「インドの政治、経済、社会、文化等に関する情報収集や調査、研究活動。インド人と日本人との交流促進。インドや日印関係の知識普及や啓発、情報発信。文化行事を通した日本とインドの文化交流の促進。日印双方の政府、関係団体等に対する提言。」と記述されています。

 

歴代会長は、初代が長岡護美(ながおかもりよし)、第2代が大隈重信、第3代が渋沢栄一であり、現在の第7代が森喜朗です。公式サイトによると、202010月現在の日印協会の役員は、代表理事・会長:森喜朗、代表理事・理事長:平林博(元駐印・仏大使)以下に、評議員8名、理事・副会長6名、業務執行理事・常務理事1名、理事8名、監事2名、顧問7名の計27名です。

 

田原総一朗(ジャーナリスト)も顧問に名を連ねています。日印協会の創設者である肥後熊本出身の長岡護美、早稲田大学創設者の大隈重信、500以上の企業の設立や運営を手掛けた渋沢栄一と現理事長の平林博をワークの対象に選びました。それぞれに光を降ろすと「裏インド」「裏インド」「今の松の形を作った。アドレノクロムのネットワーク」「ロスチャ」と伴侶が伝えて来ました。

 

ロスチャイルドの番頭とされる渋沢栄一が設立した日本商工会議所》では、渋沢栄一はロスチャイルドの番頭と呼ばれた重鎮です。日印協会の創設者は、日本を深い闇にするための役割だったと思います。今のインドは13億人以上の人口を有しており、日印協会は、ロスチャイルドが支配する金の闇の松利権ネットワークの1つだ感じます。(つづく)