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18日、夕食後に左下奥の軽い歯痛を覚えました。左下奥の歯の場所は、日本地図でいうと新潟県の辺りと感じました。ネット検索と詳細地図で調べていくと「イザベラ・バード」と「阿賀野川」が気になりました。イザベラ・バードは、《医療伝道に特化した英国・エディンバラ医療宣教会》のワークで「スパイ(工作員)」と伝えられていました。イザベラ・バードについて、再度、調べました。

 

イザベラ・ルーシー・バード(1831-1904)は、19世紀の大英帝国の旅行家、探検家、紀行作家、写真家、ナチュラリストです。ファニー・ジェーン・バトラーと共同で、インドのジャンムー・カシミール州シュリーナガルにジョン・ビショップ記念病院を設立しました。バードは女性として最初に英国地理学会特別会員に選出されました。1881年に妹の侍医であったジョン·ビショップと結婚しています。

 

イザベラ・バード・ビショップ(Isabella Bird Bishop)、ビショップ夫人とも称されました。18786月から9月にかけて、通訳兼従者として雇った伊藤鶴吉を供とし、東京を起点に日光から新潟県へ抜け、日本海側から北海道に至る北日本を旅しました。また10月から神戸、京都、伊勢、大阪を訪ねています。これらの体験を、1880年、"Unbeaten Tracks in Japan" 2巻にまとめました。

 

1巻は北日本旅行記、第2巻は関西方面の記録です。この中で、英国公使ハリー・パークス、後に明治学院を設立するヘボン博士(ジェームス・カーティス・ヘボン)、同志社のJ.D.デイヴィスと新島夫妻らを訪問、面会した記述も含まれています。1885年に関西旅行の記述、その他を省略した普及版が出版されました。ウィキペディアの内容からイザベラ・バードは松取りの工作員だと感じます。

 

阿賀野川え~とこだ!流域通信》には、「明治初期の東日本を旅したイギリスの女性旅行家・イザベラ・バードは、わざわざ遠回りして福島側から新潟入りし、阿賀野川流域を経由して新潟市に滞在した後、東北の地へ踏み行っていきました。あえて踏査が困難なルートを辿る中、思いもかけずバードが遭遇した“ライン川より美しい”光景が広がる阿賀流域の行路」と記されています。

 

レイライン(水の道)の重要なポイントである会津若松を経由して、信濃川、阿賀野川の船旅をしていることから、松取りをしながら水のエネルギーを封印していった人物だと感じました。イザベラ・バードは、《麒麟は封印する術のシンボル》でワークを行った麒麟山のある津川町にも滞在していました。津川町で気になった新潟県立津川病院の院長と場所に光を降ろしました。

 

「いいです」と伴侶が伝えて来ました。阿賀野川は福島県・群馬県にまたがる荒海山(標高1581m)に源流を持ち、新潟県を流れ日本海に注ぐ一級河川です。阿賀野川中流域にある昭和電工鹿瀬工場から排出されたメチル水銀が新潟水俣病をひき起こしました。阿賀野川には、近世・近代の治水の代表の1つとして「安積疏水(あさかそすい)」があります。

 

安積疏水は、猪苗代湖より取水し、福島県郡山市とその周辺地域の安積原野に農業用水・工業用水・飲用水を供給している疏水であり、水力発電にも使用されます。安積疏水建設には、会津藩・二本松藩・米沢藩・棚倉藩といった奥羽越列藩同盟参加藩出身の士族の他に、久留米藩・土佐藩・松山藩・岡山藩・鳥取藩といった西日本の諸藩出身士族も参加・定住しました。

 

総工費407千円(現在で約400億円)、従事人員延べ約85万人、施工期間3年の時を経て安積疏水は1882年に通水、完成しました。また、明治天皇の行幸を機に安積原野は大規模な農業経営が可能な土地として中央も注目し、本格的な農地開墾事業に内務省が乗り出し、内務卿・大久保利通が調査することとなり、オランダから招聘されたファン・ドールンに用水の実施計画調査を命じました。

 

ファン・ドールンの調査によって用水路建設が可能であると判断した政府は、翌1879年に疏水開削起工式を挙行し、日本で初となる国直轄の農業水利事業(安積疏水事業)の始まりでした。オランダのお雇い外国人のファン・ドールン(1837-1906)が気になりました。御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「工作員」と伝えられました。イザベラ・バードと同様に、ロスチャイルドの松取り工作員です。

 

安積疏水は、明治天皇、日本政府(内務省)、ロスチャイルドが関係した松果体収穫を裏の目的とした事業だったと感じます。《松取りのための戊辰戦争という真実を闇で覆ったロスチャイルド》にありますが、会津藩の白虎隊は、松取りの犠牲になった少年兵たちです。戊辰戦争は、天皇、徳川幕府、会津藩、フランスが裏で手を組んだ松利権のための戦争だったのです。

 

日本の天皇や政府といった支配層は金儲けのために国民の命を犠牲にしてきました。秘密裏に行われる松果体収穫は、人と自然の光を封じる大きな闇として働きます。会津の地、阿賀野川を封じる松果体収穫の闇は時代が変わっても引継がれていきます。阿賀野川の水源である荒海山と阿賀野川全体に光を降ろすと「光は入りました」と伴侶が伝えて来ました。(つづく)