kokkaigijidou


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25日、朝起きると昔勤務した会社の同期の「福田」が出てきた夢を見たのを覚えていました。夢のメッセージは「福田」の名前の人物だと思いました。「福田」でネット検索していくと、元総理大臣の「福田赳夫」だと感じました。福田赳夫(1905-1995)は、日本の政治家、大蔵官僚です。衆議院議員、農林大臣、大蔵大臣、外務大臣、行政管理庁長官、経済企画庁長官、内閣総理大臣などを歴任しました。

 

群馬県群馬郡金古町(現・高崎市足門町)に父・福田善治(元金古町長)の二男として生まれました。金古町立金古小学校卒業後、群馬県高崎中学校に入学し、同校を首席で卒業し、第一高等学校文科丙類仏法科に入学します。1926(大正15)、東京帝国大学法学部法律学科仏法科へ進学します。高等文官試験行政科に一番の成績で合格し、大蔵省に入省しました。

 

大蔵省の主計局で順調に出世して局長にまで登り詰めましたが、1948(昭和23)の政府関係者に対する贈収賄が問題になった昭電疑獄の際に、当時大蔵省主計局長の福田は収賄罪容疑で逮捕されます。無罪になりましたが、同年11月に大蔵省を退官します。1952(昭和27)10月の第25回衆議院議員総選挙に群馬三区から無所属で立候補し初当選しました。

 

1953(昭和28)12月、自由党に入党し、やがて岸信介に仕えます。1960(昭和35)12月、大蔵省の先輩である池田勇人の政権下で、政調会長に就任します。池田の政策を批判し、岸派の分裂を受ける形で坊秀男・田中龍夫・一万田尚登・倉石忠雄ら福田シンパを糾合し、「党風刷新連盟」を結成し、派閥解消を提唱するなど反主流の立場で池田に対抗しました。

 

これが後に福田派(清和政策研究会)に発展します。佐藤栄作政権下では大蔵大臣・党幹事長・外務大臣と厚遇され、福田の後見人である岸からの強い支持もあって、岸・佐藤兄弟の後継者として大いにアピールできたものの、この時からポスト佐藤を巡る田中角栄との熾烈な闘争(角福戦争)が始まります。田中角栄が率いる経世会(平成研究会)と福田赳夫が率いる清和会(清和政策研究会)の対立です。

 

この対立構図が、表の米国の闇と裏の欧州の闇です。田中角栄が欧州勢力(欧州ロスチャイルド・天皇派)、福田赳夫が米国勢力(米国ロックフェラー・米国派)となります。清和政策研究会は、衆参合わせて97名の国会議員が所属する自由民主党の最大派閥で、現在は細田派です。これまで福田派安倍派三塚派森派町村派細田派の流れで変わって来ました。

 

清和会の歴代総理大臣は、福田赳夫、森喜朗、小泉純一郎、安倍晋三がいます。角福戦争の時代は、天皇派と米国派の2大勢力が純粋に戦っていた時代だと思います。福田赳夫のウィキペディアの「関係する人物や団体」の項目には、統一教会・国際勝共連合と児玉誉士夫らと並ぶ「戦後最大級のフィクサー」と称された大谷貴義(おおたによしたか)の名前が載っていました。

 

日本を覆う統一教会を中心とする松果体利権の暗黒網》には、統一教会・国際勝共連合のワークの内容を記していますが、朝鮮半島・韓国は米国派です。《中国・朝鮮による松果体収穫が日本の光を封印する闇の仕組》に、中国と朝鮮による日本の封印について記していますが、欧州勢力(天皇派)と米国勢力(米国派)2大勢力の松利権支配の抗争による闇の仕組でもあります。

 

「大谷貴義」は、初めて知る人物でした。Wikipediaには、「大谷貴義(1905-1991)は、和歌山県出身の実業家。日美創業者。宝石卸を本業として「日本の宝石王」と呼ばれる一方、政財官界やアンダーグラウンドの世界に隠然たる力をもち、児玉誉士夫らと並ぶ「戦後最大級のフィクサー」と称された。特に、元首相の福田赳夫とのつながりが強く、「福田の影に大谷あり」と言われた。

 

公の場にはあまり姿を現さず、代々木上原に1,000坪の豪邸を構え、十数人の使用人に囲まれて過ごしたため、謎のフィクサーとも呼ばれた。大谷が保有していた肩書きは、主なものだけでも「裏千家最高顧問」「そごう最高顧問」「松下電器産業特別客員」「産経新聞社顧問」「毎日新聞社筆頭社友」「大阪産業大学名誉総長」などがある。

 

また、マスコミからは、「最後のフィクサー」「闇の帝王」「日本の宝石王」「代々木の怪富豪」「日本の政財界の裏側で最も気になる人物」などと呼ばれた。」と記されています。大谷貴義の画像をネット検索しても何も出て来ませんでした。元総理大臣の福田赳夫という権力者を裏で操る工作員だったと見ます。茶道流派の1つである「裏千家」の肩書を持っていたことも気になります。(つづく)