4月27日、午前中から左腕の付け根の皮膚に軽い痛みがありました。左腕は能登半島なので、左腕の付け根は石川県の辺りだと思いました。パソコンのグーグルマップで石川県の細部を観ていくと「金沢城」だと感じました。過去のヒプノセラピーで「隠された加賀の松果体システムが表に出て最後になる」と伝えられていました。アドレノクロムの闇のネットワークの要の場所が加賀・石川県なのです。
金沢城は、加賀国石川郡尾山(現・石川県金沢市丸の内)にあった日本の城です。江戸時代には加賀藩主前田氏の居城でした。城址は国の史跡に指定されており、城址を含む一帯は金沢城公園として整備されています。金沢平野のほぼ中央を流れる犀川と浅野川とに挟まれた小立野台地の先端に築かれました。また、金沢城の前、この土地は、浄土真宗の寺院の尾山御坊(おやまごぼう)でした。
尾山御坊は加賀一向一揆の拠点で、寺とはいうものの大坂の石山本願寺(大坂御坊)と同じく石垣を廻らした城ともよべる要塞でした。過去のワークから伊集院などの「院」とは「垣根で囲われた松果体収穫の場所」と分かっています。屯倉(みやけ)、荘園、社領などと呼ばれた所有地は、松取りの縄張りに由来すると感じます。初期の寺院も城と同じく、石垣で囲った松取りの縄張りだったと思います。
金沢城の土地は、尾山御坊の時から、松取りが行われ、水という光が封じられていたのです。神社、寺院、城は、いずれも、松取りの場所という光を封印する闇の役割が隠されて来たと言えます。金沢市公式サイトに名前の由来が書かれていました。「昔、山芋を掘って売っていた藤五郎という青年がおり、山で芋をほっていると、芋のひげに砂金がついていました。その砂金を洗った泉が「金洗沢(かなあらいざわ)」とよばれます。
それが金沢の地名になったといわれています。現在の兼六園の「金城霊沢(きんじょうれいたく)」が、その泉だということです」と記されていました。これは、泉という光を金の闇で封印したことを意味しています。兼六園は、石川県金沢市に存在する日本庭園で、国の特別名勝に指定されています。17世紀中期、加賀藩によって金沢城の外郭に造営された藩庭を起源とする江戸時代を代表する池泉回遊式庭園です。
岡山市の後楽園と水戸市の偕楽園と並んで日本三名園の1つに数えられます。東京立川広域防災基地のワークから庭園や造園は「松処理の場所を隠すためのもの」と分かっています。庭や公園など人工的なものの中には、松取りの証拠隠滅のための工作があると捉えることができます。兼六園のwikiには「1822年(文政5年)には建坪4000坪・部屋数200を超える隠居所「竹沢御殿」を完成した」と記されていました。
200超の部屋数は異常であり、VIP級の権力者たちに対して松果体摂取を含めた高級接待を行うための施設だったと感じます。現代のパソナの迎賓館「仁風林」の原型が江戸時代の加賀藩にあったと推察することができます。百万石とされる加賀藩主前田氏の祖・前田利家(1539年-1599年)、金沢城と兼六園の地に光を降ろすと「松」「いいです」と伴侶が伝えて来ました。
グーグルマップで金沢城の周辺を観ていくと「卯辰山(うたつやま)」が気になりました。Wikipediaには、「卯辰山は、石川県金沢市にある山である。金沢城から見て東(卯辰の方角)に位置することから名づけられた。文化、文政年間には青木木米(あおきもくべい)により春日窯が開かれ九谷焼の再興の先駈けとなった。金沢城を見下ろす位置にあることから、江戸時代を通じて庶民の登山が禁止されていた」とありました。
卯辰山にある「長崎キリスト教殉教者碑」が目に留まりました。ネットで調べると《かなざわ百万石ねっと》を見つけました。「1870年(明治3年)、明治政府は長崎県浦上地方のキリシタン約3700人を逮捕。その中の516人は金沢藩に託された。1873年、国際的な非難からキリシタン明治禁制を廃止し、流刑の人を故郷に帰したが、この間の死亡者104人、改宗したもの36人」と記載されていました。
九谷焼などの焼物の窯は、火を使うので松取り後の遺体の証拠隠しのためと分かっています。逮捕されたキリシタンが金沢藩に託されることが不可思議であり、松取りの犠牲になったと見ています。古くから卯辰山で松取りが行われて来たと感じます。卯辰山に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「松取り場」と伝えられました。金沢の地が開かれて本来の光の場所に成ることを願っています。