福島第一原子力発電所のウィキペディアには、建設までの経過の詳細情報が掲載されていました。用地取得の項目に、「当地は、高さ30m余りの海岸段丘上にある。1号機所在地である大熊町の当該地は、1941年(昭和16年)4月に滑走帯が完成した帝国陸軍の磐城飛行場(長者ヶ原陸軍飛行場)の跡地である」と記されています。福島第一原発の場所は、旧日本軍施設の跡地でした。
これまでのワークから旧日本軍施設は、松取り(松果体収穫)に関係していることが分かっていました。《磐城飛行場 特攻教育隊の基地》には、「磐城飛行場の敷地は、1940年に旧日本軍が用地を取得し、熊谷飛行隊磐城分校、宇都宮飛行学校磐城分校という形で発足し、磐城飛行場特別攻撃教育隊として使用されました」とあります。熊谷陸軍飛行学校には、27の分教場が置かれていました。
熊谷陸軍飛行学校は、日本陸軍の軍学校の1つで、主として飛行機操縦に従事する航空兵科下士官となる生徒、少年飛行兵、あるいは将校、下士官の操縦学生などに対し、飛行機操縦の基本教育を行いました。宇都宮陸軍飛行学校も教える内容は熊谷陸軍飛行学校と同じです。旧陸軍飛行学校は、新潟県五泉市の村松陸軍少年通信兵学校と同じく松取りの闇の仕組になっていたと感じます。
Wikipediaの「福島県庁の調査・誘致活動」には、誘致関係者の具体名が記述されていました。「福島県庁が調査研究を始めたのは1958年。1952年に、当時福島県議であった天野光晴(浜通りの長塚(双葉町)出身)が、福島県庁建て替えの寄付の為に、当時東京電力常務であった木川田一隆(中通りの梁川出身)を訪問した。天野と木川田が親密になり、東京電力の原子力発電所が長塚に誘致される要因になった。
1958年当時の福島県知事は佐藤善一郎(中通りの福島市出身)であり、天野光晴は福島県議から国会議員に転身し、後に福島県知事に転身する木村守江(浜通りの四倉出身)は当時国会議員であったが、浜通りの夜ノ森周辺の自治体より産業誘致の相談を受け、東京電力社長の木川田に話してみたところ、「原子力発電所が好いのではないか」との回答を得た」とあります。
福島第一原発の誘致には、東京電力役員と地元福島県出身の国会議員、県知事、県議会議員などの政治家が深く関与しています。天野光晴(1907-1995年:浜通りの長塚(双葉町)出身の福島県議、国会議員)、木川田一隆(1899-1977年:中通りの梁川出身の東京電力常務)、佐藤善一郎(1898-1964年:中通りの福島市出身の福島県知事)、木村守江(1900-1996年:浜通りの四倉出身の国会議員、後に福島県知事に転身。佐藤善一郎の後任)をワークの対象としました。
こうした原発の誘致に関与した政治家は松利権に繋がっていると感じます。また、東電常務の木川田
一隆が師事した「電力王」「電力の鬼」との異名を持つ電力業界で活躍した実業家で茶人でもある松永安左ヱ門(1875-1971年:長崎県壱岐出身)と、磐城飛行場跡地を3万円で払い下げを受けて15年後、無用の荒地を1万倍の3億円で転売した西武グループの創業者・堤康次郎(1889-1964年)も対象に選びました。
天野光晴、木川田一隆、佐藤善一郎、木村守江の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「鉄道利権」「中国反社」「同和」「アーク」と伴侶が伝えて来ました。「鉄道利権」と伝えられた天野光晴について調べると、建設大臣の時に、国鉄改革や地下鉄の建設など鉄道業界に関わっていました。松永安左ヱ門と堤康次郎の御魂が上がるよう光を降ろすと「アーク」「トカゲ」と伝えられました。
旧日本軍の軍事施設の飛行学校での松果体収穫の闇は、福島第一原発にも引継がれました。松取りの目的は金儲けそのものです。金儲けのために日本の人たちの命を奪い、工作活動によって、その真実を隠蔽して来たのです。こうして大本営、政治家、一流企業の経営者など権力者たちによって国民の命を金に換える松利権の仕組が構築されました。この隠された松システムの闇が日本の封印の根源です。
魂を持つ人々が深い闇を経験するための暗闇の環境でもありました。深い闇を経験して大きな光になるための闇の仕組です。今回のワークの2日前、福島第一原発の調査をした時に、両足がとても冷たくなりました。亡くなった人たちの魂が来ていました。現在の福島第一原発の地で松取りの犠牲になって人たちの御魂が上がるよう光を降ろすと両足は温かくなりました。隠された松取りの闇の仕組が終わりになることを願っています。(つづく)