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15日、左腕の少し下の背中に痛みを覚えました。場所的には「福井県」だと感じました。福井県と言えば「原発」です。福井県には、敦賀発電所(原電)、美浜発電所(関電)、大飯発電所(関電)、高浜発電所(関電)4つの原子力発電所があり、現在、13基の原子炉中で4基が稼働しています。原発が立地している場所は、工作の闇が置かれていると感じます。

 

工作の闇とは、表の原発・裏のアドレノクロム工場に代表されるように、松果体利権を隠すための裏工作が行われているということです。福井県の原発は、若狭湾周辺に集中しています。それだけ若狭湾が重要な水のエネルギーの場所であり、工作の闇で覆い封じる必要があったと感じます。福井県で気になったのがもう1つありました。「永平寺(えいへいじ)」です。

 

永平寺は、福井県吉田郡永平寺町にある曹洞宗の仏教寺院であり、總持寺と並ぶ日本曹洞宗の中心寺院(大本山)です。開山は道元、本尊は釈迦如来・弥勒仏・阿弥陀如来の三世仏です。永平寺には、2014年10月の巡礼の旅で訪れていました。「山が開かれん。山は我が心の光なり」と言って、道元のエネルギー体が昇天していったのを覚えています。

 

豊かな自然のある大事な光の場所である福井の地に置かれた永平寺をもう一度紐解く必要がありました。永平寺のウィキペディアには、『真の仏法を学ぶには中国(宋)で学ぶしかないと道元は考えた。師の明全も同じ考えであり、彼ら2人は師弟ともども貞応2(1223)に渡宋する。道元は天童山景徳寺の如浄に入門し、修行した。

 

如浄の禅風はひたすら坐禅に打ち込む「只管打坐(しかんたざ)」を強調したものであり、道元の思想もその影響を受けている。道元は如浄の法を嗣ぐことを許され、4年あまりの滞在を終えて帰国した』と記されています。臨済宗と曹洞宗に代表される日本の禅宗は中国の影響を強く受けています。永平寺の創建に関する記述には、重要人物の名前がありました。

 

『旧仏教側の迫害を避け新たな道場を築くため、道元は信徒の1人であった越前国(福井県)の土豪・波多野義重の請いにより、興聖寺を去って、義重の領地のある越前国志比庄に向かうことになる。寛元元年(1243年)のことであった。当初、義重は道元を吉峰寺へ招いた。この寺は白山信仰に関連する天台寺院である。

 

現在の永平寺より奥まった雪深い山中にあり、道元はここで一冬を過ごすが、翌寛元2年(1244年)には吉峰寺よりも里に近い土地に傘松峰大佛寺(さんしょうほうだいぶつじ)を建立する。これが永平寺の開創であり、寛元4(1246)に山号寺号を吉祥山永平寺と改めている』と記載されていました。キリスト教の闇に繋がる「波多野義重(はたのよししげ)」がキーパーソンです。

 

波多野義重(-1258)は、鎌倉時代中期の武将で、北条重時の娘を室とし重時の被官として活躍しました。相模波多野氏は相模国波多野荘を本拠としており、南波多野荘が重時の所領となった事からその被官となったと見られます。また、「波多野氏」のウィキペディアには、『平安時代末期から鎌倉時代にかけて、摂関家領である相模国波多野荘(現神奈川県秦野市)を本領とした豪族。

 

坂東武士としては珍しく朝廷内でも高い位を持った豪族である。前九年の役で活躍した佐伯経範が祖とされ、河内源氏の源頼義の家人として仕えていた。秦野盆地一帯に勢力を張り、沼田郷・河村郷・松田郷・大友郷などの郷に一族を配した』とあります。波多野氏は、明らかに秦氏の末裔だと感じます。秦氏は原始キリスト教の闇を日本に伝えた渡来人です。

 

波多野氏の家紋が「丸十字」なのです。薩摩島津家の家紋と同じ「丸十字」は、2大勢力を戦わせて利益を得るという意味と感じています。戦わせて利を囲うということは、戦そのもので松果体を収穫して利権を得ることで、いわゆる「同和の闇」です。面白いことに「禅」の概念的象徴の1つが「円相」で、「」を筆で描いた図です。秦氏の十字架の「十」と禅の「」で「丸十字」の絵柄になるのです。(つづく)