6月25日、左腰の外側に痒みがあり、皮膚が少し腫れていました。前日にも左太腿の内側に腫れた痒みがあり、桜島だと感じて、光を降ろしていました。左腰の外側は、日本地図では、「下関市」辺りだと感じました。下関は、様々な歴史的な出来事に関わっている重要な場所でした。グーグルマップで下関市を細かく観ていくと「火の山(ひのやま)」の名前が目に留まりました。
火の山は、山口県下関市椋野にある標高268mの山です。"火の山"の名は、かつて山頂に敵の襲来を都に知らせるための狼煙(のろし)台が設けられていたことに由来します。1890年(明治23年)には山頂に砲台が置かれ、以後下関要塞の一部として重要な軍事拠点となり、戦後に開放されるまで民間人の入山が禁じられていました。下関要塞は、関門海峡周辺に設置された大日本帝国陸軍の要塞です。
九州側は富野から東は和布刈、南は高蔵山にかけての小倉、門司の山々、下関側は火の山、霊鷲山(りょうじゅせん)などの山々の全体を要塞として活用した巨大要塞で、小倉にあった第12師団の管轄下にありました。明治時代の任務は関門海峡、周防灘の沿岸防備でした。昭和になると朝鮮海峡の防衛と小倉陸軍造兵廠を中心とした小倉市街地の防空を主な任務としていました。
そのため、玄界灘の島々にも砲台を築いていました。戦後、要塞の跡地は様々な運命を迎え、取り壊された施設もありますが、当時の状態で未だに残っている施設も多いです。一部は陸上自衛隊が使用しているとみられます。明治から昭和にかけて大日本帝国陸海軍は、日本各地や海外の占領地に多くの要塞や防空壕を建設しました。軍事施設の建設の裏で、秘密裏に松取り(松果体収穫)が行われました。
強制労働に駆り出された朝鮮人の人たちを含めた、建設作業員が犠牲になりました。《頭痛から繋がった軍事要塞としての函館山の地下隠蔽壕》は函館要塞の記事ですが、戦争や戦時中に人命を奪って金儲けのための行使された松取りの真実が隠蔽されてきたのです。天皇をトップとする大本営による松取り工作の闇が明治以降の日本を深い暗闇にした要因の1つです。
火の山のグーグルマップを観ると、火の山の海側の麓に源平合戦の「壇ノ浦古戦場」がありました。源平合戦の頃は、既に戦いは松取りのためのものだったと感じます。時代が新しくなるにつれて、松取りを行うための戦いの色合いが濃くなっていきます。さらに、戦いという大義の下、混乱状態のどさくさの中で金のために人命を奪う工作という形に変わって来たのです。
壇ノ浦古戦場には、2014年12月の巡礼の旅で訪れてワークを行っていました。その時は、下関の地は、日本を分断する2大勢力が対立するカルマのために幾度も戦いが起きたと思っていました。しかし、今は、人間のエゴのために人々を欺く工作という嘘の闇が置かれて来たと感じます。火の山は、標高288mの霊鷲山の南端にあたります。霊鷲山には、功山寺名水などの湧水のある水の場所でした。水を火で封印する意味もあります。
水の地を封じるための松取りの闇の仕組にもなっています。火の山、霊鷲山に闇が統合するよう意図して光を降ろしました。また、下関市と山口県の利権を支配する権力者のワークが必要だと感じました。下関市長は前田晋太郎、山口県知事は村岡嗣政(むらおかつぐまさ)です。前田晋太郎(1976年-)は、山口県下関市出身の政治家です。下関市議会議員(2期)歴任し、下関市長の2期目です。
長崎大学水産学部卒業後、25歳で山口県に帰郷し、友田有山口県議会議員の運転手となります。2003年に安倍晋三の地元事務所に入所し、安倍の秘書を7年4ヶ月務めました。安倍晋三元首相は、戦後の日本を深い暗闇にする役割だった第一人者です。前田晋太郎に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「ニビル」と伴侶が伝えて来ました。過去のワークでは、安倍明恵夫人も同じニビルでした。
ニビルの存在は、金の支配とデータ収集を専門とする闇の仕事をして来ました。村岡嗣政(1972年-)は、山口県宇部市の政治家、自治・総務官僚で、山口県知事の2期目を務めています。1996年3月、東京大学経済学部卒業し、同年4月、自治省(現:総務省)に入省します。自治省、総務省での本省勤務の他、北海道庁や高知県庁、広島市役所への出向も経験します。
2012年4月より総務省自治財政局財政課財政企画官を務めました。村岡嗣政に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「ロスチャ」と伝えられました。ロスチャイルド工作員は、地元の松利権を引継いでいると感じます。明治以降の日本は、薩長の支配下で闇の仕組が構築されてきました。長州であった下関の地が闇の役割を終えて、本来の光の地となることを願っています。