岐阜県高山市のグーグルマップを観ていくと「飛騨大鍾乳洞」が目に留まりました。飛騨大鍾乳洞は、岐阜県高山市丹生川町にある1965年に大橋外吉が発見した観光洞部分800m、未開発洞部分1,000mの鍾乳洞です。この鍾乳洞は、標高900mに位置し日本にある観光鍾乳洞の中では一番標高が高い場所にある観光鍾乳洞として有名です。
現在は、整備され1968年6月より観光鍾乳洞として一般公開されています。鍾乳洞は、石灰岩が地表水、地下水などによって侵食(溶食)されてできた洞窟です。これまで日本各地の鍾乳洞を訪れていました。静岡県浜松市の竜ヶ岩洞、山口県美祢市の秋芳洞、福岡県北九州市の青龍窟、沖縄県宜野湾市の普天満宮洞穴、岩手県岩泉町の龍泉洞などで光を降ろすワークを行ってきました。
本来、鍾乳洞は、地球の太古のエネルギーである、シリウスの純粋なエネルギーが残っている光の場所です。いずれの鍾乳洞も、シリウスの純粋なエネルギーをアークのエゴの闇で封印されて来たと分かっています。飛騨大鍾乳洞が開かれるよう意図して光を降ろすと「松取り場所」と伴侶が伝えて来ました。シリウスの光の場所を封印するために松取り(松果体収穫)が行われて来たのです。
鍾乳洞は、人目につかない暗い密室となり、松取りにとっては格好の場所です。飛騨大鍾乳洞のある高山市丹生川町のウィキペディアには、「両面宿儺」の伝説が掲載されていました。『丹生川村に宿儺(すくな)と言う神様が存在した。寺は宿儺が作ったと言われていて、いまだに屋根には宿儺の足跡が残されている。約五キロもの長さの道を、一度飛んだだけでその寺の屋根へと飛んだと言われている。
その足跡は、寺やそこから飛んだと見られる石などにも残っている』。また、両面宿儺(りょうめんすくな)のWikipediaには、『両面宿儺は上古、仁徳天皇の時代に飛騨に現れたとされる異形の人、鬼神である。「日本書紀」において武振熊命(たけふるくまのみこと)に討たれた凶賊とされる一方で、岐阜県の在地伝承では毒龍退治や寺院の開基となった豪族であるとの逸話も残されている。
両面宿儺は、計八本の手足に頭の前後両面に顔を持つという奇怪な姿で描写される。神功皇后に滅ぼされたとされる羽白熊鷲や、「日本書紀」「風土記」にしばしば現れる土蜘蛛と同様、その異形は、王化に服さない勢力に対する蔑視を込めた形容とも考えられる。仁徳紀の記述は一般に、大和王権の勢力が飛騨地方の豪族と接触した、5世紀における征服の事実の反映とされている』とあります。
また、武振熊命については、『和珥武振熊(わにのたけふるくま)とも言われ、記紀に伝わる古墳時代の豪族・和珥(わに)氏の祖。神功皇后摂政時における忍熊皇子(おしくまのみこ)の反乱の際、討伐に遣わされた人物である。「日本書紀」神功皇后元年3月5日条によると、皇后と皇子(のちの応神天皇)に対して反乱を起こした忍熊王を討つため、武内宿禰とともに遣わされたとする。
また同書仁徳天皇65年条によると、飛騨に「宿儺(すくな)」という体は1つで顔は2つある怪物があり、皇命に従わず人民を苦しめたために武振熊が討伐に遣わされたという』と記されています。ウィキペディアの内容を読んでいくと、感覚的には両面宿儺は、先住民を誇大化した存在だと思います。武振熊命が和珥氏の祖であり、両面宿儺を討伐しており、松取りをしたのです。
古事記、日本書紀には、暗闇にするために嘘と真実が混じっていると感じます。坂上田村麻呂などヤマト王権の渡来人を正義の味方、蝦夷などの先住民を悪役にして征伐する勧善懲悪のストーリーにしている場合が多いです。《熊本県の隧道型遺構トンカラリンと繋がるエジプトのピラミッド》にありますが、和仁氏は古代・和邇氏の末裔であり、先住民などの松取りを行う工作部隊であり、武振熊命も同様と見ます。
飛騨大鍾乳洞の近くにある善久寺(ぜんきゅうじ)が気になりました。善久寺は、釈迦如来を本尊とする曹洞宗の寺院です。両面宿儺の伝説がある飛騨三十三観音31番札所です。伝説によると仁徳天皇治世、癸酉の年に日面の岩壁が崩れ落ち、その内側から両面宿儺が出現したといいます。善久寺に光を降ろすと「山を封じるもの」と伴侶が伝えて来ました。(つづく)