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14日、左足つけ根の外側の皮膚の表面に弱い痛みがありました。自分の左足は大隅半島に当たるので、大隅半島の付け根の海側の場所でした。グーグルマップで詳細に見ていくと「甑島(こしき)列島」だと感じました。ウィキペディアによると、甑島列島は、東シナ海にあり、鹿児島県薩摩川内市に属する列島です。上甑島、中甑島、下甑島の有人島3島と多数の小規模な無人島からなります。

 

中甑島北部にある「甑」(蒸籠)の形をした大岩を甑大明神として崇拝したことに由来します。平安時代中期の文献である「和名抄」には「古之木之万(こしきしま)」と表記してあります。「甑島」は従来「こしきじま」と呼称され、椋鳩十の児童文学「孤島の野犬」でも下甑島を「じま」と読ませています。上甑島の桑之浦には神功皇后の三韓征伐に関する伝説が残ります。

 

奈良時代には薩摩隼人族の一根拠地(甑島隼人)だったと推測されます。平安時代初期に編纂された「続日本紀」が「甑島」という名の初出であり、遣唐使船が甑島に停泊したことが記されました。平安中期に編纂された「和名抄」には「甑島郡管管」、「甑島」という名前が登場します。甑島列島の各地に平家の落人伝説が残っているとされます。

 

先日の山形の修験道で封じられていた「甑岳」も「甑」の名前がついています。また、《西宮 越木岩神社 ~巡礼の旅(85)~》にありますが、20145月に巡礼の旅で訪れた兵庫県西宮市の越木岩神社は、「甑岩」が祀られています。「米」は光のもので、「甑」は、米を蒸す器であり、「光」を示唆していると感じます。先住民のやまとびとが大事にしていた光の磐座です。

 

光の磐座が渡来人の松取りを行う神道によって封じられて来たのです。《奄美大島の黒糖地獄から繋がった西郷隆盛のロシア生存説》には、西南戦争で自害したとされる西郷隆盛が、実は、甑島を経由してロシアに渡り生延びたという説について言及しています。西郷隆盛は、裏と表を使い分けた、ロスチャイルド系の松取り(松果体収穫)の工作員だったのです。

 

子供たちの松果体収穫に繋がる甑島のトシドンなどの奇祭》には、鹿児島県の多くの離島などに残っている、子供をさらい、松取りをしていたことを暗示する奇祭について記しています。甑島には、「トシドン」という奇祭があり、古くから子供の松取りが行われていたと感じます。甑島列島のwikiの「薩摩隼人族の一根拠地」「平家の落人伝説」に注目しました。

 

過去の隼人塚のワークから、隼人と呼ばれる人たちは、熊襲を裏切ってヤマト王権側についた先住民だと分かっています。ヤマト王権は、先住民を征服して日本全体を支配するためにつくられた渡来人の氏族の集団です。渡来人のヤマト王権の目的は、先住民の松取りです。そのために先住民を仲間割れさせて、支配下についた先住民の隼人を松取りの現場部隊として使ったのです。

 

先住民の松取りを行うことは、人と土地の光を封じることになります。甑島列島のワークを行うことにしました。ます、甑島の名前の由来となる中甑島北部にある「甑」(蒸籠)の形をした大岩の「甑大明神」を選びました。次に、《鹿児島の平家落人伝説地》に掲載されてい「楠木正行の墓」をピックアップしました。楠木正行は、楠木正成の嫡男(正室の長男)です。

 

天皇のための松取り工作員の始祖となる南朝の楠木正成》にありますが、楠木氏棟梁の楠木正成は松取り工作員でした。引用サイトには、『天皇軍に属した楠木正成・正行は軍に殉死したことになっているが、伝説では 楠木一族は難を逃れ、中甑や下甑に入り、正行は中甑・金吾山に砦を構えていたが死没』と記されています。

 

楠木氏、平氏など戦の敗者が表の世界から消えて、裏に潜んで松取りを密かに続けていたと見ています。甑島列島は、裏に潜んだ松取り氏族の拠点だったと感じます。全ては、松利権の支配者である天皇のための闇の仕組です。甑大明神に光を降ろすと「入りました」と伴侶が伝えて来ました。楠木正行の御魂が上がるよう「楠木正行の墓」に光を降ろしました。

 

「ネガティブ。光は入った」と伝えられました。最後に甑島列島全体が開かれるよう意図して光を降ろすと「光は入りました。闇の場所だった」と伝えられました。古来、松取りの場所としては、海路で運搬できる港のある離島がありました。甑島列島は、古くから松取り場所として好適地でした。甑島列島が開かれて、本来の光が放たれることを願っています。