7月14日、この日は、体の3箇所に痛みを覚えました。その内の1つが右脇腹の外側の痛みでした。明らかに闇の解除・統合のワークを促すサインだと感じました。感覚では、紀伊半島か四国の海岸沿いだと思い、グーグルマップで細かく観ていきました。紀伊半島の三重県熊野市にある「鬼ヶ城(おにがじょう)」が目に留まりました。「鬼」は、一般的には「悪者」とされて伝えられています。
しかし、人間のエゴから自然を守るための妖怪であり、そのために怖そうな形相をしていると感じています。《アヌンナキ・闇の役割の終焉(1)》にありますが、栃木県の石裂山(おざくさん)と加蘇山(かそやま)神社のワークを行った時に、アヌンナキが光に還ると山にいた鬼たちが太鼓をたたいて祝福していたのです。その場所は、崇教真光の信者だったクライアントの方の過去世が関係していました。
石裂山や加蘇山神社では、昔、アヌンナキが化けた神の下で、先住民が犠牲となる松取りが行われていたのです。それ故に、「鬼」のつく場所や地名は、先住民が住む自然の光の場所だと感じていました。また、《能登半島の熊城郷から繋がる日本の光を封じる朝鮮半島の闇》から「熊」のつく地名の場所は、渡来人が先住民の松取り(松果体収穫)をした場所だと分かっています。
そういう意味では、熊野市の鬼ヶ城は、本来、純粋なエネルギーの場所なのです。鬼ヶ城は、三重県熊野市木本町にある海岸景勝地です。熊野灘の荒波に削られた大小無数の海食洞が、地震による隆起によって階段上に並び、熊野灘に面して約1.2km続いています。坂上田村麻呂が桓武天皇の命を受けて、鬼と恐れられこの地を荒らし廻っていた海賊・多娥丸(たがまる)を征伐したという伝説があります。
室町時代(1523年頃)に有馬忠親が隠居城として山頂に築城した日本の城があります。過去のワークから有馬氏は、摂津有馬氏、熊野有馬氏、肥前有馬氏の3系統の有馬氏が存在し、松利権を支配していた氏族です。熊野市の海岸沿いは、熊野水軍の拠点でした。《チョットnow記》には、熊野水軍が船を隠したとされる三段壁洞窟の画像と説明が載っています。
古来、鉱山の坑道や洞窟は、密室となる故に、松取りの場所として使われてきました。鬼ヶ城が開かれるよう意図して光を降ろすと「船が着いて色々なものが運ばれる。金になる」と伴侶が伝えて来ました。熊野水軍は、海運の主となる船を所有しており、海戦での松取りの現場作業員であり、ガードマンの反社です。「松」を含めて金になるものは何でも運搬していたと感じます。
熊野市のグーグルマップを観ていくと、「花窟(はなのいわや)神社」と「徐福ノ宮」が気になりました。花窟神社は、三重県熊野市有馬町に所在する神社で、伊弉冉尊(いざなみのみこと)と軻遇突智尊(かぐつちのみこと)を祀ります。「日本書紀」には、伊弉冉尊は軻遇突智(火の神)の出産時に陰部を焼かれて死に、「紀伊国の熊野の有馬村」に埋葬されたといいます。
以来近隣の住人たちは、季節の花を供えて伊弉冉尊を祭ったと記されています。花窟神社では、それが当地であると伝え、社名も「花を供えて祀った岩屋」ということによるものとされます。神体である巨岩の麓にある「ほと穴」と呼ばれる高さ6m、幅2.5m、深さ50cmほどの大きな窪みがある岩陰が伊弉冉尊の葬地であるとされ、白石を敷き詰めて玉垣で囲んだ拝所が設けられています。
今日に至るまで社殿はなく、熊野灘に面した高さ約45メートルの巨岩である磐座が神体です。花窟神社の磐座に光を降ろすと、「自然を封じる場所」と伝えられました。本来、磐座は、光のポイントであり、光のエネルギーライン(レイライン)を作るためのものでした。それを渡来人が松取りをして磐座の精霊を闇にして封じたのです。徐福ノ宮は、三重県熊野市波田須町にある徐福を祀る神社です。
創建は不詳ですが、鶴岡八幡宮の創建を記念してその翌年の康平7年(1064年)に創建された波田須神社よりも前から存在したとされ、徐福神社では稲荷神社を合わせて祀っていました。徐福は、中国から日本の先住民の松取りをするために来た渡来人です。鹿児島県から青森県までの光の地を封印していきました。過去のワークでは、徐福は弘法大師の過去世と分かっています。
徐福は、稲作と稲荷神の元を日本に持ち込みました。佐賀県の金立山に光を降ろした際に、徐福の御魂が光に還って行きました。徐福ノ宮に光を降ろすと「海賊が拝んだ場所」と伝えられました。徐福も大船団で日本に渡来した海賊と言えます。徐福の渡来以降、先住民の地だった熊野の地は、松取り、海運を生業とする海賊の拠点となったのです。熊野の地が本来の光の地に戻ることを願っています。