
7月14日の3つ目の体の痛みは、左手首の外側でした。この痛みも場所を知らせるサインでした。左腕が能登半島なので、能登半島の先の方の外側の海岸線沿いだと感じました。グーグルマップで細かく観ていくと「鰐埼(わにさき)」の地名に目が留まりました。松取り(松果体収穫)工作部隊の和邇氏を関係があると思いました。ネットで調べると《でんでんむしの岬めぐり》がありました。
『鰐崎というのも、なかなかおもしろい名前である。昨日今日新しくついた名前でなければ、明らかにワニという動物を知っていて名付けたものだろうか・・鰐崎のワニも本来のワニのイメージをちゃんともったうえで名付けられた、とみてよいのだろう。日本に残るワニに関する地名も、古くからあったワニ信仰または和邇(和爾)氏にかかわるものだろう。』と記されていました。
鰐埼の住所は、石川県珠洲市馬緤町(まつなぎまち)です。古くから松取りと縁が深い場所だと感じます。鰐埼の周辺についてネットで調べていくと《平家の郷を訪れて-能登半島・伝説とロマンの旅-》に行き当たりました。どうやら能登半島の石川県輪島市、珠洲市周辺は、平家落人伝説の地のようでした。同サイトの記述にある「平時忠(たいらのときただ)」が気になりました。
『平時信の長男として生まれ、清盛の妻、時子の弟であり、清盛の義弟にあたる。出世を重ねるも、二度の失脚を経験するなど波乱にみちた道のりながら、権大納言にまで昇進したことにより、政治家としては希有な存在だったといえる。平家一門では平清盛を補佐しつつも実権を一手に担った参謀で、平清盛亡き後、平家の実質的な指導者はこの平時忠であったと言われる。
平家が全盛を誇ると、「平家にあらずんば人にあらず」といった有名な言葉を残した。壇ノ浦で捕えられたが、三種の神器の一つ「神鏡」を守った功績により、死罪は免れ能登に配流になる。その4年後、能登の地で生涯を終えたとされる。』と記述されています。さらに、平時忠のウィキペディアには、「義経への接近」の項目で、源義経との関係で興味深い内容が書かれています。
『時忠は壇ノ浦で捕虜となり、4月26日に入洛した。時忠は神鏡を守った功績により減刑を願い、娘(蕨姫)を源義経に嫁がせることで庇護を得ようとした・・時忠は神鏡を守った功績により死罪一等を減じられたとされる。鎌倉に向かった義経が帰京してから配流が執行される予定だったが、この頃から義経と頼朝の間に不和が発生し、義経はしだいに鎌倉の統制から外れていく。
8月中旬には時忠・時実を除く7名が配地に下るが、時忠・時実は義経の庇護を受けて都に残留していた。9月23日、時忠は情勢の悪化を悟り、配流先の能登国に赴いた。「平家物語」では都を離れる前に建礼門院に別れの挨拶をしていることから、ある程度の行動の自由は認められていたようである。』と記されています。
平時忠は、平氏の松取り工作員だったと感じます。
それ故、源氏の松取り工作員である源義経に繋がっていたのです。また、《生贄のための裏インドの闇のエネルギーと分かった鏡の統合》などのワークから三種の神器である「八咫鏡」などの「鏡」は、松取りの際に使う闇のエネルギーを放つツールだと分かっています。平時忠が守った「神鏡」は松利権の象徴だと感じます。平時忠の御魂が上がるよう意図して光を降ろしました。
「平氏を名乗っているけど本流じゃない。色んな状況を見て立ち回っていた」と伴侶が伝えて来ました。平時忠は、松取り工作という裏の仕事をしていたので平氏の本流ではないのです。《藤沢 白旗神社 ~巡礼の旅(157)~》にありますが、源義経の御魂は、神奈川県藤沢市の白幡神社の墓所で光を降ろし、武蔵坊弁慶を始めとする20名程の家臣の御魂と共に上って行きました。
その際、義経に「どうして忘れた」と厳しく詰問されたのを覚えています。源氏と平氏は、表では敵対関係でしたが、裏では戦を通じた松取り目的で繋がっていたのです。また、調べていくと平時忠を祖とする時国家(ときくにけ)がありました。時国家は、祖を平時忠とする800年続く旧家です。重要文化財の主家は、近世木造民家では最大級高さ18メートルの茅葺き大屋根が巨木の松の間に立っています。
鎌倉様式庭園も国指定名勝です。公式サイトには、『二家分立された時国家の当家は、加賀藩領の時国家であります。江戸時代を通して、山廻役、御塩懸相見役、御塩方吟味人役など藩の役職を代々受け継ぐとともに、農業、塩業、廻船業などを営んでいました。』とあります。また、《能登半島北前船ものがたり》には、北前船を利用して商売繁盛していた様子が記されています。
『現在の輪島市、かつて天領(幕府直轄地)の大庄屋であった上時国家が北前船で最も繁栄したのは江戸時代後半、文化文政期(1804~30)前後の数十年間だった』とあります。時国家には末裔として、現(第24代)当主の時国信弘(金沢医大卒・医師)がいます。時国家の現当主に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「松」と伝えられました。
石川県輪島市町野町にある時国家の主家に光を降ろすと「いいです」と伝えられました。能登半島の鰐埼の地は、古くは和邇氏の時代から先住民の松取りが行われ、平時忠や源義経に引継がれて来ました。さらに、平時忠を祖とする時国家が松利権を支配して来たと感じます。能登半島の水の道(レイライン)を封じる仕組でした。能登の平家落人の地が開かれて光の地になることを願っています。