6月25日午前、大阪市西成区で崖の近くに建っていた住宅2棟が相次いで崖下に崩れ落ちました。幸いにして、けが人はいませんでした。NHKのNEWS WEBにも記事があります。7月6日午後には、毎日新聞ニュースにあるように、倒壊の恐れが出ていた別の1棟が引き倒して撤去されました。7月1日、私は、大阪西成の住宅倒壊が起きたことに意味があると感じて、ネットで調べていました。
グーグルマップで住宅倒壊現場を観ていくと、「天下茶屋東公園」の辺りでした。その近くには、史跡の地図記号と共に「天下茶屋湿地」と記されていました。《自然の草木が茂る天下茶屋湿地の魅力》には、天下茶屋湿地が地下水が湧き出る片葉の葦群生地であることが書かれています。西成の住宅倒壊場所は、本来は、住宅地にしてはいけない湧水のある湿地帯だったのです。
また、現地から北東に約100mの所に「長州藩死節群士之墓」がありました。「長州藩死節群士之墓」は、1864年(元治元年)、京都の蛤御門(はまぐりごもん)の変で敗れ、大阪で捕らえられ投降を強要されたが応じず、自決又は処刑されたという長州毛利藩の藩士48名の墓です。長州藩死節群士之墓を調べた後、腹部が張る自覚症状があり、何かの闇のエネルギーが入ったと感じました。
直ぐに、伴侶に協力してもらい自分の腹部を意図して光を降ろすと「黄色」と伝えられました。黄色は「隠す闇」です。長州藩死節群士之墓には、何か隠された工作の闇があると思いました。その前に、住宅倒壊現場の地名の「天下茶屋」が気になりました。ウィキペディアには、『天下茶屋は、大阪市西成区の地名である。天下茶屋の地名は、かつてこの地にあった茶屋の名に由来する。
この地は、古代には「天神の森」と呼ばれる鬱蒼とした森の茂った鄙びた土地だった。そこに湧く水の良さに着目して茶室を建て、森を切り開いて道をつけたのが、千利休の師にあたる武野紹鷗だった。以来この地は「紹鷗の森」とも呼ばれるようになった。天正年間 (1573–92) には楠木正行の十世孫であるという初代芽木小兵衛光立がこの森の西側を開き、ここに茶屋を出した。
そして三代目芽木小兵衛昌立のとき、住吉神社を参拝した関白・豊臣秀吉がこの地に立寄り、この芽木家の茶店から清泉を汲んでお伴の千利休に茶を点てさせたところ、味の良さに感激。そこでこの泉に「恵の水」の銘を、芽木家に玄米年三十俵の朱印を与えた。そこから関白殿下の「殿下茶屋」、天下人の「天下茶屋」などの名が知られるようになったという』と記されていました。
過去のヒプノセラピーやワークから「茶室」は大名などの権力者が「松(松果体)の生血」を摂取する場所だと分かっています。「天下茶屋」の場所は、湧水の地という光を闇で封印するために松取りが行われた場所でした。千利休の師にあたる武野紹鷗(たけのじょうおう:1502年-1555年)は、戦国時代の堺の豪商(武具商あるいは皮革商)で、茶人です。
武野紹鷗の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「松の仲買人」と伴侶が伝えて来ました。やはり「松」を商売にしていた豪商でした。そうなると長州藩死節群士之墓の源となる「蛤御門の変」に隠された闇がある可能性が出て来ます。蛤御門の変の正式名は「禁門の変」です。禁門の変は、元治元年7月19日(1864年8月20日)に、京都で起きた武力衝突事件です。
前年の八月十八日の政変により京都から追放されていた長州藩勢力が、会津藩主で京都守護職の松平容保らの排除を目指して挙兵し、京都市中において市街戦を繰り広げた事件です。畿内における大名勢力同士の交戦は大坂夏の陣(1615年)以来であり、京都市中も戦火により約3万戸が焼失するなど、太平の世を揺るがす大事件でした。幕府軍、長州軍合わせて、戦死者460名を出しました。
禁門の変は、松取りのための工作活動だったのです。《悲劇の美談というエゴの闇で真実を隠蔽された二本松少年隊》などのワークから、松平容保を藩主とする会津藩は、松取り工作部隊である故に、京都守護職を命じられたと感じます。長州藩死節群士之墓に留まる御魂が上がるよう光を降ろすと「上がって行っている」と伝えられました。大阪西成の天下茶屋の地が本来の姿に戻ることを願っています。