
8月3日、寝る時に横になっていると、腹部の中央左側に痛みがあり、ワークのサインでした。おへその少し左側なので、岐阜県か福井県の辺りなのかと感じました。翌日、グーグルマップで細かく観ていくと「九頭竜(くずりゅう)川」「九頭竜湖」だと思いました。九頭竜川は、日本の福井県嶺北地方を流れる一級河川で、九頭竜川水系の本流です。
流域面積は、福井県の面積の約70%にあたり、県のシンボルの一つとされています。福井県大野市東市布の岐阜県との県境にある油坂峠(717m)付近に源を発し、九頭竜ダムを経て、岐阜県郡上市から流れる石徹白川を合わせます。大野盆地・勝山盆地を北西に進み、福井平野にて日野川を合わせ北進、坂井市で日本海に注ぎます。
川のワークの場合、光を降ろす対象の1つが水源です。九頭竜川の油坂峠にある水源がグーグルマップで表示されないので、ネットで調べると《越前・九頭竜川源流・蝶々清水(蝶の水)》のブログ記事がありました。越前と郡上にまたがる油坂峠頂上(標高約840m)にある九頭竜川の水源は、蝶々清水(蝶の水)と言われるようです。九頭竜湖は「蝶の湖」と言われます。
この時は、油坂峠と蝶々清水の場所が開かれるよう意図して私単独で光を降ろしました。川という光の水のエネルギーの流れを封印する闇は、治水などの工事の際の松取り(松果体収穫)の闇です。エネルギー的に光を覆うための大きな重たい闇を置く必要があります。《明治政府の大久保利通が尽力した松取りのための阿賀野川の安積疏水事業》にある阿賀野川の安積疏水事業がそうでした。
工事の労働者を大勢動員して、トラブルや事故などに紛れて密かに松取りをしていたと見ています。九頭竜川にも治水の歴史がありました。ウィキペディアには、『古代より治水・利水のための開発が繰り返し行われて来た。明治に入り、内務省はお雇い外国人による河川改修を木曽川や淀川など全国で実施した。その中心となったのがG.A.エッセルとヨハニス・デ・レーケであるが、彼らは九頭竜川流域でも治水工事を指導監督した。
具体的には沈床工・護岸工の設置、土砂堆積が問題だった三国港改修のための突堤整備と九頭竜川導流堤の建設である。九頭竜川は1908年(明治41年)に内務省直轄河川事業に指定されたが、春江堤防・東藤島堤防築堤等の「明治の大改修」事業の完成までには杉田定一の尽力によるところが大きい。一方、絹織物産業などの殖産興業の発達により電力需要も増大した。
急流で水量の豊富な九頭竜川は水力発電の適地として次第に電源開発が行われていった。』と記されています。河川改修、治水工事、疎水事業などの大規模工事を隠れ蓑にした松取りから、近代は、ダムや水力発電所の建設に繋がっています。《東北電力のワークから浮上する揚水発電所の裏側のアドレノクロムの闇》にありますが、日本各地の揚水発電所、水力発電所は地下施設があります。
その地下施設が実質的な松取りの闇としてのアドレノクロムの工場になっていると推察しています。水の流れである川の光のエネルギーを松取りの闇で封じる仕組が構築されているのです。ワークの対象人物として、G.A.エッセル、ヨハニス・デ・レーケ、杉田定一を選びました。G.A.エッセル(ゲオルギ・アルノルド・エッセル:1843年-1939年)は、オランダの土木技術者で、明治期にお雇い外国人として来日しました。
淀川(大阪府)の修復工事や坂井港(三国港、福井県)のエッセル堤、龍翔小学校(現:みくに龍翔館)の設計、指導を行いました。ヨハニス・デ・レーケ(1842年-1913年)は、オランダの土木技師です。お雇い外国人として日本に招聘され、砂防や治山の工事を体系づけたことから「砂防の父」と称されます。
淀川の改修や三国港の改修などに関わり、エッセルは主に設計を、デ・レーケは施工や監理を中心に担当しました。
杉田定一(1851年-1929年)は、福井県出身の政治家で、衆議院議長などを務めました。九頭竜川の改修に尽力して自らの私財の一部も寄付して工事の実現を図りました。三国鉄道建設にも深く関わりました。G.A.エッセル、ヨハニス・デ・レーケ、杉田定一の各御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「工作員」「工作員」「金と名誉」と伴侶が伝えて来ました。(つづく)