現在の旭川市は、1890年(明治23年)に村が置かれ、屯田兵の配備や北海道官設鉄道上川線の旭川延伸、第七師団の移住によって発展しました。1901年(明治34年)に町に昇格した際に設置した「町村制実施準備委員会」において公園造成を決議しましたが、着手に至らないまま日露戦争が始まりました。1910年(明治43年)、こうした事情の下で、常磐公園の造園が始まりました。
常磐公園の設計者・星野勇三(1875年-1964年)は、山形県出身の農学者(農学博士)、遺伝学者で、北海道帝国大学名誉教授でした。園名碑の揮毫(きごう)をした渡辺錠太郎(1874年-1936年)は、愛知県出身の陸軍軍人で、最終階級は陸軍大将です。1903年(明治36年)、陸軍大学校17期を首席で卒業し、歩兵第36連隊中隊長として日露戦争に出征します。
戦傷を負いましたが、その後は参謀本部での勤務、海外での勤務が多く、最小限の隊付勤務で将官となり、陸軍大将に親任されました。1936年(昭和11年)、教育総監 兼 軍事参議官に在職中に、二・二六事件が起き、自邸を襲撃した反乱軍に殺害されました。星野勇三、渡辺錠太郎の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「半島」「松」と伴侶が伝えて来ました。
常磐公園全体に光を降ろすと「いいです。地下あり」と伝えられました。神楽岡公園は、旭川市中心部から南東約3km、上川離宮予定地であった神楽岡の丘陵地に位置します。1914年(大正3年)に、神楽岡の御料林を帝室林野局から借用し開園しました。上川離宮は、明治時代中期(19世紀末)に当時の北海道上川郡旭川村(現旭川市)への誘致が検討されていた離宮の名称です。
離宮だけでなく、西京=京都、南都=奈良、東都=東京などと同様に、上川郡に「北京」を建設するという構想もありましたが、どちらも実現には至らず構想にとどまりました。1872年(明治5年)に、岩村通俊(開拓判官)が当時は未開の地であった上川地方を部下の高畑利宜に視察させています。上川離宮は、天皇の松果体摂取の場所と捉えています。旭川の地は、天皇のための松取り場所だったのです。
過去のワークで、岩村通俊(1840年-1915年)の御魂を上げていました。高畑利宜(1841年-1922年)は、京都府出身の北海道庁官吏であり、北海道開拓の功労者です。岩村通俊(初代北海道庁長官)から重用され、北海道内陸部(上川・空知)の開発に大きく貢献したとされます。上川道路開削にあたっては樺戸集治監の囚人を使って作業させ、囚人道路としての上川道路を建設しました。
実質的に、高畑利宜は、上川・空知の開発という名目での松取り現場の監督官だったと感じます。高畑利宜の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「悪魔崇拝者」と伝えられました。神楽岡公園が開かれるよう意図して光を降ろすと「いいです」と伝えられました。春光台公園は、1949年(昭和24年)に、旧日本軍の演習場の一部を大蔵省から借り受けて都市計画決定しました。
しばらく未整備の状態が続き、当初の公園名は「鷹栖(たかす)公園」でした。1912年(明治45年)に、オーストリアのテオドール・エードラー・フォン・レルヒ中尉が旭川を訪れた際、現在の春光台公園スキー場で第七師団や旭川中学の学生に「オーストリア流の単杖スキー術」の指導をしており、これを「北海道スキー発祥之地」として園内には記念碑があります。過去のワークでレルヒ中尉は「松取り工作員」と分かっていました。
松取りは、人を動員して大勢集めることが重要です。春光台公園の地で松取りが秘密裏に行われたことが示唆されます。春光台公園に光を降ろすと「地下あり」と伴侶が伝えて来ました。旭川市で気になったのが旧旭川偕行社(かいこうしゃ)(現・中原悌二郎記念旭川市彫刻美術館)です。旧旭川偕行社は、1902年(明治35年)に師団将校達へ向けた集会所・社交場や迎賓館となる目的で建設されたものです。
陸軍省臨時建築部の指揮の下、師団の生活する家屋とともに、将校たちの社交場「旭川師団将校集会所」として建設されました。偕行社は、帝国陸軍の将校准士官の親睦・互助・学術研究組織として設立されました。日本全国および外地の偕行社の会館は多数ありましたが、現存するのは、旭川市、弘前市、善通寺市、豊橋市、岡山市、台南市(台湾)の旧偕行社です。
戦前の旧偕行社は、現在は、公益財団法人偕行社として引継がれています。偕行社の戦後初代会長・鈴木孝雄(1869年-1964年)の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「松」と伴侶が伝えて来ました。公益財団法人偕行社の理事長・森勉に光を降ろすと「遮光器土偶のアヌンナキ。この目で術をかける」と伝えられました。旧旭川偕行社は、旧陸軍の"仁風林"と感じました。
旧旭川偕行社に光を降ろすと「いいです」と伝えられました。旭川市のワーク対象に光を降ろした後、旭川市の地下施設全体を意図して光を降ろすと「いいです」と伝えられました。最後に、「旭川女子中学生いじめ凍死事件」の犠牲者の廣瀬爽彩(さあや)さんの御魂が上がるよう意図して光を降ろしました。「アイヌの恨みつらみがある」と伴侶が伝えて来ました。
廣瀬爽彩さんは、アイヌのシャーマンで虐げられて殺され祭上げられた知里幸恵と魂を共有していると感じました。北海道開拓時代、天皇をトップとするDSの松取りの闇の拠点が旭川に作られました。アイヌの人たちを虐殺して亡き者にしたのです。隠された怨念の闇が深いカルマとして現在に続いていました。廣瀬爽彩さんが光に還り、旭川の地が本来の精霊の光の場所に戻ることを願っています。(おわり)