「旭川いじめ凍死事件」に関係する調査とワークから旭川市は、反社を束ねる創価学会が闇の中核にあると感じました。松利権ネットワークにおけるDSのトップの天皇の下に置かれた創価学会・反社によって社会と市民を支配の闇にする構図が作られて来たと感じます。最近のワークから、創価学会が裏の闇のネットワークを広げて来た中心的な存在ではないかと思うようになりました。
創価学会は、裏で天皇の松利権を守るためのガードマン役であり、反社を束ねて様々な工作活動を行って来たと見ています。旭川市の深い闇の構図は、首長、政治家、公務員、教師、教育委員会、自衛隊、警察など本来は、市民をサポートするための役割の人たちが、真実を隠蔽するなどして、グルになって闇の集団の一端を担っているのです。その手法は「金」と「欲」です。
金で思うように動かしたり、パソナの仁風林やエプスタイン島のように人間のエゴと欲で釣って弱みを握るやり方をしているのです。弱みを握られた人は、蟻地獄の闇の仲間に入り、抜け出すことが出来なくなります。一時期、多発した芸能人のみせかけの自殺のように簡単に口封じすることも可能だからです。《日本淘道会のワークから浮上する利権を守る裏の集団》では、口封じ専門の集団に言及しています。
ワークで分かったのは、例えば表で商売をしながら裏で口封じする闇の集団が実在することです。当然、対価として金が動きます。必殺仕置人の闇の集団は、古くから存在しています。《魂の光を摂取する生贄という闇の仕組》にありますが、鎌倉時代の「諏訪神党」という武士集団が現在の反社の源流の1つなのです。武士は刀を所持しており、権力者のガードマンです。
皇族や貴族の松取りのための荘園などの土地の警護役でした。諏訪神党は、松利権の秘密を守るために言う事を聞かない人間の口封じをしていたのです。実は、創価学会の歴史は、北海道を密接に繋がっています。《北海道の開拓時代に繋がる創価学会の歴史》の一連の記事に書きましたが、創価学会の初代会長・牧口常一郎と初代理事長・戸田城聖は、2人とも北海道で暮らしていました。
牧口常一郎は、「尋常小学校を卒業後の1885年に14歳の単身で北海道に職を求めて渡った」とされています。小樽警察署の給仕をしながら苦学の末に、1891年、札幌の北海道尋常師範学校(現:北海道教育大学)第一学部3学年に編入したといいます。牧ロ常三郎の実父・長松は「北海道へ出稼ぎの途中消息を断つ」とされていますが、屯田兵名簿に実父の名前が残っています。
戸田城聖は、1900年2月11日、石川県江沼郡塩屋村(現:加賀市塩屋)に、北前船の仲買商の父「甚七」と母「すえ」の七男「甚一」として誕生します。1902年に一家で北海道厚田郡厚田村へ移住し、1908年に厚田尋常小学校に入学しています。当時の北海道は開拓時代です。北海道開拓の裏の目的は、屯田兵と日本陸軍を使った天皇のための「松」「薬」を通じた資金集めだと捉えています。
裏の仕事には、真実を隠す工作員が必要です。創設者の牧ロ常三郎と戸田城聖の家系や出生情報から、創価学会が松利権などの金のためのつくられたと感じます。松利権の工作活動を含む裏の仕事であり、その隠れ蓑としての宗教団体です。故に、屯田兵と大日本帝国陸軍の拠点が置かれた旭川市が創価学会の闇の支配されて来たと見ています。旭川のワークを終えて「函館」が浮かんでいました。
函館市は、北海道で札幌市、旭川市につぐ3番目に人口が多い都市です。函館港は、鎖国が解かれると欧米の闇が流入した玄関口でした。《ペリー来航から始まるキリスト教と軍事施設で結びつく隠された利権》にありますが、日本が開国されると真っ先に米国のペリーが函館港に来ています。フリーメイソンのペリーは、北海道の松(松果体)利権を得るために函館に足を踏み入れたのです。
函館山には多くのキリスト教会があります。カトリック、プロテスタントなどのキリスト教の宣教師が訪れて、医療や福祉の施設を通じて、松取りが行われてきました。戦前は、日本軍によって函館要塞がつくられ、朝鮮人労働者などの松取りが密かに行われたのです。函館は、水の地という光を封印するために、松取りの闇が置かれて来たのです。松取りの闇を終わりにするために、函館市の調査とワークを進めていきました。(つづく)