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医師・峰宗太郎が副代表の「こびナビ」の運営メンバーの出身大学を見ると副事務局長以上のメンバー9名の内、代表の医師・吉村健佑をはじめ6名が「千葉大学」でした。なぜ千葉大学なのかを思案すると、キリスト教の医療伝道が浮かびました。《日本の近代医療の原点となるキリスト教の医療伝道》にありますが、日本聖公会安房大貫キリスト教会(千葉県南房総市)を拠点に医療伝道が初めて行われたのです。

 

「医療伝道」とは、医療活動を通し、地域に奉仕しながら伝道することとされます。西洋医学の医療活動をすることでキリスト教を布教していったのです。しかし、医療伝道の裏の目的は、松取り(松果体収穫)でした。過去のワークで、「裏のキリスト教の教義。いかに松を取るかが神への奉仕」と伝えられていました。人に知られずに多くの「松」を取ることがキリスト教の隠された目的であり、そのための「医療伝道」だったのです。

 

渡来人が最初に関東に上陸したのは、房総半島の館山市です。千葉県は、古くから純粋な光の地であり、先住民の「松」を採取されて来た場所だと分かっていました。そういう意味で、現代の「松」の闇の拠点が医学部や附属病院を持つ「千葉大学」だと捉えました。千葉大学について調査とワークを行っていきました。千葉大学は、1949年に設置された、千葉県千葉市稲毛区弥生町に本部を置く日本の国立大学です。

 

旧制官立千葉医科大学の流れを汲む、旧官立大学の一つです。千葉大学は、1949(昭和24)に千葉医科大学・同附属医学専門部・同附属薬学専門部、千葉師範学校、千葉青年師範学校、東京工業専門学校、千葉農業専門学校を包括して新制の国立大学として発足しました。千葉大学の源流となる「千葉医科大学 (旧制)」は、1923(大正12)4月に設立された旧制官立大学です。

 

ウィキペディアの目に留まった記載には、『18747月、千葉町・寒川村・登戸村(現・千葉市)ほかの有志および三井組の拠金により共立病院設立。19469月、津田沼町大久保(現・習志野市泉町)の陸軍習志野学校跡に腐敗研究所を設置。19739月、生物活性研究所に改組。197710月、亥鼻(いのはな)に移転。現・真菌医学研究センター。19477月、腐敗研究所に附属医院習志野分院を開設』とありました。

 

千葉大学は、陸軍習志野学校などの旧日本軍の施設と関係していました。千葉医科大学、千葉大学医学部でワークの対象を調べていくと千葉大学大学院医学研究院・医学部のサイトの《千葉医学》を見つけました。長尾精一(1850-1902)は、明治時代の香川県出身医師、教育者です。明治13年東京大学卒業後、千葉病院長兼医学教場教頭となります。以後学校は千葉医学校、千葉医専と発展・改称し、その校長をつとめました。

 

三輪徳寛(みわよしひろ:1859-1933)は、愛知県出身の医学博士で、千葉医科大学(現千葉大学医学部)初代学長です。校長代理時代の1904(明治37)日露戦争が勃発、千葉医学専門学校長は赤十字社支部看護婦養成所長も兼ねており、日露戦争戦傷者を収容した東京予備病院千駄ヶ谷分院及び戸山ヶ原分院での治療を担当すると共に派遣看護婦の管理督励を行いました。

 

これにより1906年(明治39年)、国より勲四等瑞宝章を、赤十字社より銀杯一個を贈られました。千葉医学の祖・長尾精一、千葉大学医学部・外科学の祖(初代学長)・三輪徳寛の御魂がそれぞれ上がるよう意図して光を降ろすと「ワニ」「松喰い」と伝えられました。中山恒明(なかやまこうめい:1910-2005)は、山梨県出身の外科医、外科医学者で、食道外科で独自の手術法を確立したことで知られます。

 

「食道がんの外科治療の世界的パイオニア」と言われ、1991年、がん医学の中山恒明賞が創設されます。1947(昭和22)36歳で千葉医科大学第二外科教授となり、千葉医大生え抜きとして初めての教授就任でした。千葉医大はその前身の千葉医専の時代から、典型的な東大医学部の植民地であり、主任教授はすべて東大医学部出身者で占められていました。

 

白壁彦夫(しらかべひこお:1921-1994)は、福岡県出身の医師、医学博士です。旧制千葉医科大学を卒業後、同大学第一内科講師を経て、順天堂大学消化器内科教授となります。千葉医科大学在籍中に「胃X線二重造影法」を開発し、世界をリードしました。その功績を記念し、「白壁賞」という賞が消化器の研究者に対して贈られています。川崎富作(1925-2020)は、東京都出身の医師、医学博士です。

 

専門は小児科臨床であり、「川崎病」の発見者として知られます。1948(昭和23)に、千葉医科大学臨時附属医学専門部(現在の千葉大学医学部)を卒業し、19495月、同大学小児科に入局します。19501月から日本赤十字社中央病院(現日本赤十字社医療センター)に勤務します。19577月、千葉大学より学位を取得します。1961(昭和36)1月に、診察を受け持った4歳児の未知の疾患に遭遇します。

 

1962年、非猩紅熱性落屑症候群の名前で千葉県小児科学会で報告、さらに1967年に自験50例をまとめた論文を雑誌「アレルギー」に発表し、注目を浴びました。最初は単純な疾患と考えられましたが、病理学的に冠動脈に動脈瘤が見られ、死亡例も多かったので、「川崎病」が定着しました。中山恒明、白壁彦夫、川崎富作の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「人体実験の鬼」「金」「松喰い。研究の鬼」と伝えられました。(つづく)