新型コロナウイルスのワクチンの原料を老舗醬油メーカーのヤマサ醤油が作っていることをニュースで知りました。《コロナワクチン"醬油"老舗企業が原料製造》(10月10日、日テレNEWS24)には、『ヤマサ醤油が作っているワクチンの原料は、「シュードウリジン」という白い粉状の物質です。ワクチンでどんな役割を果たしているのしょうか。ヤマサ醤油によると「シュードウリジン」は、新型コロナワクチンのmRNA(メッセンジャーRNA)を構成する物質の1つで、私たちの体の細胞にも存在しています。
mRNAは、体内で炎症を起こすことから、医薬品としての実用化は難しいと考えられていました。しかし2005年、新型コロナウイルスのmRNAワクチンを開発研究したドイツの製薬大手、ビオンテックのカタリン・カリコ上級副社長と、アメリカ・ペンシルベニア大学のドリュー・ワイスマン教授の2人は、mRNAをこの「シュードウリジン」で構成すれば、炎症が抑えられるという論文を世に出したのです。私たちの体は、異物が入ってくると防御するために免疫機能が作用します。
この免疫機能が、体内に取り込まれたワクチンのmRNAを異物ととらえて、作用できないようにしてしまわないように、「シュードウリジン」で構成されたmRNAを使うことで、免疫機能を回避し、目的のタンパク質を生成することができるのです。なぜ、「シュードウリジン」の製造をヤマサ醤油が?ヤマサ醤油の医薬・化成品事業部の担当者に聞きました。「日本の料理は、だしで決まる」かつおぶしやしいたけからとる出汁は、日本料理の味を引き立てます。
ヤマサ醤油も長年この「うまみ」の研究を続けています。かつおぶしのうまみの成分はイノシン酸、しいたけのうまみ成分はグアニル酸。これらは「核酸化合物」です。そして、シュードウリジンも「核酸化合物」の1つなのです。ヤマサ醤油は、1970年代から60年以上にわたって、核酸関連物質の研究をしてきました。1980年代には、試薬としてすでにシュードウリジンを海外に輸出していたのです』と記されています。過去のワークから感染症のワクチンは松取り(松果体収穫)の工作の原点だと分かっています。
松取りの闇は、人間の魂の光や土地の光を封印するための隠された闇の仕組に成って来ました。ヤマサ醤油についての歴史を調べてワークを行うことにしました。ウィキペディアには、『ヤマサ醤油株式会社は、千葉県銚子市にある醤油を中心とした調味料メーカー。七代目当主濱口梧陵の代で医学をはじめ様々な社会事業に尽力し、現在でも診断用医薬品や抗体試薬などの医薬品も販売している。醤油業界では同社と同じ千葉県に本社を置くキッコーマンに次いで全国シェア第2位。
1645年(正保2年)-初代・濱口儀兵衛が紀州から銚子に移り、廣屋儀兵衛商店として創業する。「山笠にキ」の暖簾を考えるが、紀州徳川家の船印と同じだったため、キを横向きにした所、サと読めることからヤマサとした。以後も代々の当主は銚子と紀州を行き来している。1928年(昭和3年)11月-濱口儀兵衛商店を、株式会社組織への改組を期に、現在のヤマサ醤油株式会社に社名変更。1957年(昭和32年)-リボ核酸分解法による調味料製造法を発明。1970年(昭和45年) - 医薬品製造免許を取得。
1986年(昭和61年)-診断薬の製造販売を開始』とあります。会長・濱口道雄、社長・石橋直幸、千葉県銚子市新生町の本社に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「工作員。ケミカル部隊」「トカゲ」「醤油漬けが浮かんだ」と伝えられました。会長、社長とも隠す闇の意味がある黄色がスクールカラーの慶応大学出身です。7代目濱口儀兵衛(7代梧陵:1820年-1885年)は、安政南海地震に際して広村住民の津波からの避難誘導にあたり、防波堤の建設に尽力しました。
また、人材育成や医学の発展にも支援を行い、政治家としても活動しました。さまざまな社会事業を手がけましたが、とくに医学への支援を厚く行いました。梧陵の支援と影響を受けた一人が、関寛斎です。寛斎は1856年(安政3年)、佐藤泰然の推薦によって銚子で医院を開業しました。当時流行していたコレラの防疫に意を傾けていた梧陵は、寛斎を江戸の西洋種痘所(後の東京大学医学部)に赴かせました。
伊東玄朴、三宅艮斎(三宅秀の父)の下でコレラの予防法を学ばせ、銚子でのコレラ防疫に業績をあげました。《北海道陸別開拓の祖とされる蘭方医の関寛斎》に書きましたが、関寛斎は、北海道開拓の名の下で、医者として松取りの役割を担っていたと感じています。10代目濱口儀兵衛(10代梧洞:1874年-1962年)は、明治後期から昭和戦前期にかけての当主で、「醤油王」と謳われました。
帝国大学理科に進み、イギリスに留学して化学を専攻しました。1899年(明治32年)に儀兵衛家を継ぎ、1928年(昭和3年)には濱口儀兵衛商店を株式会社組織に改組、現在のヤマサ醤油株式会社を発足させて社長に就任、醸造工程と経営の近代化に努めました。7代目・濱口梧陵、10代目・濱口梧洞の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「アーク。アークトカゲ」「中国工作員」と伝えられました。
醬油の発祥の地として有名なのは「湯浅町」ですが、ヤマサ醬油の公式サイトによると「湯浅」「由良」「広村」の地域に由来するようです。『ヤマサ醤油を創業した初代濱口儀兵衛は、醤油発祥の地である紀州湯浅の隣りの広村(現広川町)の出身。濱口家の家長は代々、紀州広村にある本家と銚子を行き来していました』と記載されています。どうして紀州から銚子に移ったのかがポイントです。紀州の地は、重要な光の場所であり、古くから「松」「薬」などの隠された金の闇で封じれてきました。
紀州には、戦の松取り部隊としての熊野水軍、九鬼水軍などがあり、源氏の松取り部隊長であった源義経の子分の弁慶のゆかりの地でもあります。江戸時代には、紀州廻船や廻船ルートの拠点として、経済的に反映した地でもあります。《日本一のアヘン生産地だった紀州和歌山》にありますが、戦前の紀州は、ケシ栽培が盛んでした。また、紀州は、紀伊水道があり中央構造線が通る場所で、暗闇にするために大きな闇のエネルギーを置く必要があったと感じます。
《柏崎千葉構造線から直感した表の原発と裏のアドレノクロム工場の構図》にありますが、銚子についても「柏崎千葉構造線」という新潟県柏崎市から千葉県に至る大断層線が存在します。柏崎千葉構造線は、千葉県銚子市まで延びていると見ています。大事な光の地を封じるための銚子だったと感じます。今は闇が終わる時に来ています。ヤマサ醤油が本来の姿になり、紀州と銚子の地が開かれることを願っています。