1125px-Imperial_Garden_Theater_Japan


11
月初旬に出光興産の知人が出て来た夢をみました。会社勤めの時代に、出光興産とは仕事で縁がありました。日本石油(現・ENEOS)のワークの前から出光興産が気がかりでした。今世で出会った縁ある人は、過去世でも縁があり、お礼参りとして光を降ろすワークを行うことにしました。ワークを行うに場合、対象となる相手を知るためにネットで調べる必要があります。エネルギーワークの場合、相手を知ること光を入れる重要なポイントとなります。

 

ウィキペディアによると、『出光興産株式会社は、東京都千代田区に本社を置く日本の企業である。日経平均株価の構成銘柄の一つ。創業者は出光佐三(いでみつさぞう)。石油精製、石油化学、電子材料の製造と販売、またEV用次世代電池の全固体電池の主要材料となる固体電解質の研究開発にも力を入れ数多くの特許を保有している。1949(昭和24)に石油元売会社に指定された。2019(平成31)41日、経営統合による昭和シェル石油の完全子会社化がされた。

 

その後は、トレードネーム(通称)として「出光昭和シェル」を名乗っていた。2021(令和3)4月より、全国のサービスステーション(給油所)のブランド名を2023年(令和5年)までに「apollostation(アポロステーション)へ統一するのに伴い、通称を「出光」に戻した。出光佐三により福岡県門司(現・北九州市門司区)で日本石油(現・ENEOS)の潤滑油の特約店の「出光商会」として1911年(明治44年)に創業。

 

1940年(昭和15年)に現法人が設立され、戦後高度経済成長の波に乗り、石油の輸入・精製を手がける民族資本の元売大手として発展した』と記されています。出光興産の原点は、日本石油の潤滑油の特約店でした。出光興産創業者の出光佐三は、満鉄(南満州鉄道)の社員でもありました。満鉄を源流とする電通のワークの際に、満鉄のウィキペディアに名前が掲載されていることを覚えていました。出光佐三は、カリスマ的な創業者です。

 

百田尚樹著の経済歴史小説「海賊とよばれた男」は、出光興産創業者の出光佐三をモデルとした主人公・国岡鐡造の一生と、出光興産をモデルにした国岡商店が大企業にまで成長する過程が描かれています。ウィキペディアには、『出光佐三(1885-1981)は、明治から戦後にかけての日本の実業家・石油エンジニア・海事実業家。石油元売会社出光興産の創業者。貴族院多額納税者議員。神戸高等商業学校(現・神戸大学)卒業。

 

同校で水島銕也校長に師事し「士魂商才」の理念に感化を受ける。同期に高畑誠一、永井幸太郎、和田恒輔。内池廉吉教授の「商業概論」の講義で受けた「商売は金儲けではない」との教えから、1940年に出光興産創業後、大地域小売業を展開した。佐三は故郷である福岡県宗像市に在る宗像大社を厚く信仰していた事で知られ、その再建にも貢献した。出光佐三は、1885(明治18)822日 福岡県宗像郡赤間村(現・福岡県宗像市赤間)に誕生。父は藍問屋を営む出光藤六、母は千代。

 

1901(明治34)福岡市商業学校(現・福岡市立福翔高等学校)に入学。1905(明治38)神戸高等商業学校(現・神戸大学経済学部)に入学。神戸高商在学中、将来外交官になろうと考えていた。1911(明治44)620日 日田重太郎(ひだじゅうたろう:資産家。日田の息子の家庭教師を佐三が務める)から「働く者を身内と思い良好な関係を築き上げろ。己の考えを決して曲げず貫徹しろ。そして私(日田)が金を出したことは他言するな。」と資金6,000円を渡され満25歳で独立。

 

福岡県門司市(現・北九州市門司区)に出光商会を設立。日本石油(現・JXTGエネルギー)の特約店として機械油を扱った。1914(大正3)南満州鉄道に車軸油の納入成功』と記載されています。出光佐三のウィキペディアの経歴で気になったのが、「日田重太郎」です。内容は美談で飾られていますが、赤の他人にタダで巨額資金を援助することはなく、必ず裏があると思います。松利権に関わる資金援助だと感じました。

 

日田重太郎を調べていくと《日田重太郎ってどんな人物?出光佐三との関係は?》に行き着きました。『日田重太郎は神戸や淡路島、徳島などに多くの土地を持つ資産家です。後に資金援助する事になる出光佐三の9つ年上だったと言われており、佐三が1885年に生まれた事を考えると、1876年頃に生まれたと考えられます。映画「海賊と呼ばれた男」では近藤正臣さんがご隠居さん的な感じで演じておられましたが、実際は兄貴分的な存在だったのかもしれませんね。 

 

日田重太郎が出光佐三と出会ったのは神戸の町でした。当時の日田は、実家との仲が悪化した事から神戸に住んでいたとされ、職に就く事はなく茶道や骨董を楽しむ「高等遊民」みたいな存在だったと言われています。 一方、当時の佐三は神戸商業高等学校に通っていたものの、父親の家業である藍問屋の経営が危ない事から仕送りの額が少なくなっており、このため家庭教師をしてお金を稼ぐ必要に迫られていた状況でした。そして、佐三が家庭教師として教えたのが、日田重太郎の子供だったのです。

 

その後、独立を決意するも開業資金のあてがなく悩んでいた佐三に対して、日田は自らの資産のうち6千円の提供を申し出ます。当時の6千円は、現在で換算すると1億円近くにもなる大金。借りる事でさえも困難なこの金額を、日田は「貸す」のではなく「貰ってくれ」と言うのです。ただし日田重太郎は、以下の3つの条件を佐三に守る事を資金提供の条件としました。「・従業員を身内だと考え、良好な関係で付く合っていく事 ・自らの考えを最後まで曲げない事 ・自分(日田)が資金を提供した事を他人に言わない事」

 

佐三にも依存がある筈はありません。こうして日田重太郎の資金提供を受けた佐三ですが、最初の3年間は失敗の連続でした。貰った資金も全て無くなってしまい、会社を畳む事を決意した佐三は日田の元へ報告と謝罪しに行きます。しかし日田は佐三を責めないどころか「神戸にある私の家を売ればお金には困らんだろう」と言うのだから驚きですよね。こうした事がキッカケとなり、日田は一族から佐三との縁を切るように迫られた事もあったそうです。 

 

しかし、日田重太郎は佐三を信じていました。 「出光の為なら自分の全財産を失っても構わない」とまで言ってのけた佐三は感激し、海上にいる漁師たちに商品である油をセールスしに行き、これが大成功。その後も出光興産はビジネスの規模を拡大し続け、1956年には山口県にある徳山製油所の建設に成功します』と書かれています。ネット検索で見つけた出光佐三と一緒に映った画像からも、日田重太郎は、只者ではないと感じました。(つづく)