1200px-Seizanso,_Ibaraki_08


水戸藩は、常陸にあって現在の茨城県中部・北部を治めた藩で、藩庁は水戸城(水戸市)に置かれました。水戸藩は、尾張徳川家、紀州徳川家と並ぶ徳川御三家の一つです。徳川御三家は、江戸時代において徳川氏のうち徳川将軍家に次ぐ家格を持ち、徳川の名字を称することを認められていた三つの家のことです。水戸藩については、これまでのワークなどから松取り(松果体収穫)の工作活動に長けた部隊だと思っていました。

 

その一例が天狗党の乱を起こした「天狗党」です。天狗党は、幕末、水戸藩で、藩主徳川斉昭の藩政改革を機に結成された尊王攘夷運動の急進的な一派です。1864年、筑波山に兵を挙げましたが、幕府の追討軍に敗れ、翌年、幹部は処刑されました。天狗党の乱は、幕末期の他の日本の内乱、内戦(西南戦争・戊辰戦争など)と同様に、松取りのための戦いだったと捉えています。暗黒集団が裏で金儲けをするための工作としての戦いです。

 

最終的には天皇がトップとなる暗黒集団・日本DSと見ています。《幕末維新を通じて日本の表裏の闇の仕組の構築のための工作活動を成した天忠党》の記事には、「貴嶺会」の公式サイトに載っている「天忠党 顕彰慰霊祭趣意書」がありますが、そこには、『勤皇派 水戸藩』とあり、藤田湖東、小四郎、武田耕雲斎、斎藤監物の名前が記されています。藤田湖東は、徳川斉昭の腹心の武士、学者で、吉田松陰らに代表される尊王攘夷派の思想的な基盤を築きました。

 

藤田小四郎は、藤田湖東の四男で、天狗党の首領格です。武田耕雲斎は、水戸藩の天狗党の首領です。斎藤監物は、藤田湖東に師事した常陸静神社の神職で、桜田門外の変に参加して死亡したとされます。内乱や内戦を含む戦い自体が工作であり、偽装死(二重死)もありうるので、史実などの記録もそのまま受取れないと感じます。水戸徳川家の祖は、徳川家康の子供の徳川頼房(とくがわよりふさ)です。

 

徳川頼房は、江戸幕府初代将軍・徳川家康の十一男として伏見城に生まれています。水戸徳川家で著名な人物が、徳川光圀(とくがわみつくに)です。徳川光圀は、徳川頼房の三男でです。ウィキペディアには、『光圀は学問を好み、「大日本史」の編纂を開始し、水戸藩に尊王の気風を植え付けた。水戸藩で生まれた水戸学は幕末の尊皇攘夷運動に強い影響を与えた』と記されています。尊王攘夷運動の源流が「水戸学」なのです。

 

水戸学のウィキペディアには、『水戸学は、江戸時代の日本の常陸国水戸藩において形成された学風、学問である。第2代水戸藩主の徳川光圀によって始められた歴史書「大日本史」の編纂を通じて形成された。特に天保期以降、第9代藩主徳川斉昭のもとで尊王攘夷思想を発展させ、明治維新の思想的原動力となった。光圀を中心とした時代を前期水戸学、斉昭を中心とした時代を後期水戸学として分けて捉えらえることも多い。

 

儒学思想を中心に、国学・史学・神道を折衷した思想に特徴がある』とあります。明治維新以降については、『明治維新後から第二次世界大戦の終結までにかけて、水戸学は、その源流でもある徳川光圀とともに盛んに称揚された。特に、明治23(1890)、明治天皇の水戸行幸の直後に発せられた教育勅語は、「国体(こくたい)」や「斯道(しどう)」など水戸学における中心的な用語が使用され、内容も水戸学の影響が顕著である。

 

明治天皇は、光圀・斉昭に正一位の贈位、その後光圀・斉昭を祀る神社の創祀に際して常磐神社の社号とそれぞれに神号を下賜し、別格官幣社に列した。また、明治39(1906)に「大日本史」が249年の歳月を経て完成され全402巻が明治天皇に献上されると、その編纂に用いた史書保存のための費用を下賜し、それによって彰考館文庫が建造された』と記されています。明治天皇から御下賜金(ごかしきん)が授与されています。

 

裏の松利権に深く関わっていると感じます。コトバンクには、『大日本史とは、神武天皇から後小松天皇までの歴史を紀伝体で記載。朱子学の名分論の立場にたち、大友皇子(弘文天皇)の即位を認め、南朝を正統とするなどして尊王論の伸張に寄与し、水戸学を生んだ』とあります。裏の南朝天皇による支配体制を確立するための水戸学だったと感じます。徳川光圀(水戸光圀)と言えば、TBSの時代劇「水戸黄門」が浮かびます。

 

「水戸黄門」の時代劇ドラマから水戸光圀が諸国漫遊してと思われがちですが、『実際の光圀は日光、鎌倉、金沢八景、房総などしか訪れたことがなく、関東に隣接する勿来と熱海を除くと、現在の関東地方の範囲から出た記録はない』とwikiに記されています。裏世界で働いた徳川光圀の真実を隠してヒーローに仕立てるための印象操作にも思えます。ちなみに、TBSの水戸黄門のスポンサーはナショナル(松下電器産業)です。

 

水戸黄門の原作は葉村彰子という共同ペンネームで、その中心人物は松下電器産業出身のテレビプロデューサー・逸見稔です。ナショナルは、松下幸之助が設立した一流企業で、多くの工作員の政治家を輩出した松下政経塾に繋がります。水戸徳川家の祖・徳川頼房(1603-1661)の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「いいです。普通の人」と伴侶が伝えて来ました。水戸藩の第2代藩主・徳川光圀(1628-1701)の御魂が上がるよう意図して光を降ろしました。

 

「何か変な感じがする。ずっと生きている。替え玉を使った。トカゲ」と伝えられました。茨城県常陸太田市にある徳川光圀の隠居所・西山荘(せいざんそう)のあった西山御殿跡に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「松」と伝えられました。やはり光圀の隠居所の西山荘は、松取りの場所でした。茨城県水戸市にある徳川光圀・徳川斉昭を祀る常磐神社に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「いいです。地下あり」と伝えられました。(つづく)