1200px-Tokugawa_Museum_01


水戸藩が歴史書「大日本史」を編纂するために置いた修史局が「彰考館(しょうこうかん)」です。常陸水戸藩の第2代藩主・徳川光圀は歴史学に強い関心を持ち、青年時代から修史事業を企図していたと言われます。光圀は明暦3(1657)に江戸駒込別邸内の火事小屋御殿に史局を開設し、数人の局員と文庫を設けて修史計画に取り組んでいましたが、寛文元年(1661)に父の頼房の死去により水戸藩主に就任しました。

 

この頃、幕府では「本朝通鑑」の編纂事業が行われ、これに刺激を受けた光圀は寛文12(1672)に史局を江戸小石川藩邸に移転し、「彰考館」と命名しました。修史事業は天和3(1683)に「新撰紀伝」104巻の完成を見ますが、南朝を正統とする理念を固めていた光圀は終期の延長と内容の不備を正すため修史事業は継続されました。光圀は元禄3(1690)に隠居し西山荘での生活を送っていましたが、晩年の光圀は紀伝以外の各種編纂事業を中止させました。

 

そして、校訂作業を次世代へ持ち越すなど編纂方針を変更させ、史館員を増強させる等事業を促進させています。元禄10(1697)には本紀「百王本紀」が完成し、同年2月には残る列伝の完成のため総裁をはじめ主用な史館員を水戸城内へ移転させ、水戸彰考館を発足させました。水戸藩のワークを行う上で、この「彰考館」が重要でした。江戸小石川の水戸藩邸の跡地は、現在、東京ドームに隣接した小石川後楽園となっています。

 

今も赤門(旧水戸藩江戸上屋敷中仕切門)が残っています。江戸時代の彰考館所在地(江戸小石川水戸藩邸跡地)と水戸彰考館跡の所在地(水戸城址)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「地下あり」「いいです」と伴侶が伝えて来ました。現在の小石川後楽園は、東京都文京区後楽一丁目にある都立庭園になっています。江戸時代初期には、水戸徳川家の江戸上屋敷内につくられた築山泉水回遊式の日本庭園(大名庭園)でした。

 

芝公園・小石川後楽園など東京の公園にいたワニの居残り隊が光に還る》のワークでは、小石川後楽園に光を降ろしてワニの宇宙人が還って行きました。ワニが居たことは、古くから松取り(松果体収穫)が行われていたことを意味します。加賀藩の兼六園(石川県金沢市)のワークでも松取りの闇と分かっていました。こうした大名などの社交場としての日本庭園は、現在のパソナの迎賓館「仁風林」のような上級国民が松を嗜む場となっていたのです。

 

明治以後の彰考館についてWikipediaで以下のように記載されています。『幕末の水戸藩の動乱には、彰考館の史館員も多く巻き込まれた。明治維新により彰考館も廃止になるかとの噂も流れたが、「大日本史」の編纂事業が水戸徳川家の事業として続けられることとなり、偕楽園に移された上で、組織を縮小しつつ継続された。明治39(1906)、「大日本史」が完成し、彰考館の事業は終わりを迎える。

 

明治40(1907)、明治天皇から「書物保存に役立てるように」と金1万円の下賜があり、明治42(1909)には皇后(昭憲皇太后)からも3千円の下賜があった。これらの下賜を受けて、明治43(1910)、彰考館の所蔵した史料や文献が現在の常磐神社の義烈館のあたりに収められ、彰考館文庫として保存された。昭和20(1945)8月、水戸空襲により彰考館文庫は焼け落ち、彰考館所蔵史料はその大部分が灰となった。

 

しかし、あらかじめ避難させていた5分の1程度の史料が残り、茨城県水戸市にある彰考館徳川博物館内の彰考館文庫に引き継がれており、光圀揮毫の扁額なども所蔵されている。昭和42(1967)に財団法人水府明徳会が結成され、徳川家から家宝と土地建物の寄贈を受けた。昭和45(1970)に博物館法により「彰考館」として登録された』。水戸藩の彰考館は、今も茨城県水戸市にある彰考館徳川博物館に引継がれています。

 

201141日に母体である財団法人水府明徳会が公益財団法人徳川ミュージアムに改組となるにともない、「徳川ミュージアム」と改称されました。ウィキペディアによると、徳川ミュージアムに所蔵する水戸徳川家に伝わる古文書や道具類約3万点の中には、重要文化財の「ドチリナ・キリシタン」があります。ドチリナ・キリシタンは、近世初期にイエズス会によって作成されたカトリック教会の教理本です。4種類の教理本の収蔵館はバチカン図書館、東洋文庫、水戸徳川家、カサナテンセ図書館です。

 

水戸藩の彰考館には表に出せない真実である秘密が隠されて来たとも感じます。徳川ミュージアム(旧・彰考館徳川博物館)は、茨城県水戸市見川1丁目にあり、水戸藩の日本庭園だった「偕楽園」と隣接しています。徳川ミュージアムと偕楽園一帯に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「いいです」と伝えられました。公益財団法人徳川ミュージアム(旧・財団法人水府明徳会)の理事長は、徳川斉正(とくがわなりまさ)です。

 

徳川斉正(1958-)は、第14代当主徳川圀斉の長男で、水戸徳川家第15代当主です。東京海上日動火災保険株式会社常勤顧問、公益財団法人徳川ミュージアム理事長、一般社団法人漢字文化振興協会会長を歴任しています。慶應義塾幼稚舎から慶應義塾普通部、慶應義塾高等学校を経て、1980(昭和55)に慶應義塾大学商学部を卒業し、東京海上火災保険株式会社(現・東京海上日動火災保険)に入社し、執行役員総務部長を務めました。

 

公益財団法人徳川ミュージアムの理事長と東京都世田谷区等々力の本部に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「徳川反社」「凄く怪しい」と伝えられました。何かを匿っている感じだといいます。これまでのワークから、水戸藩の彰考館は、徳川光圀の時代から天皇の裏の仕事を引受けていたと感じます。松利権を主とした裏世界の金儲けの役割を担っていたのです。Yahoo!知恵袋には、興味深く鋭い質問が掲載されていました。

 

『水戸藩と加賀藩からは維新後に有名人が出なかったのは 両方とも大藩です、にもかかわらず明治維新後に政治家や軍人、財界人は輩出されていません。なぜでしょうか。鳥羽伏見後に官軍に恭順しており朝敵にはなっていませんが』という質問です。私の感覚では、水戸藩と加賀藩は、裏の仕事に回ったからです。松・薬などの天皇の裏の金儲けという重要な仕事を水戸藩と加賀藩が担っていたのです。そのヒントが日本三名園にあります。

 

日本三名園は、優れた景勝を持つ三つの日本庭園、金沢市の兼六園、岡山市の後楽園、水戸市の偕楽園の総称です。加賀藩、岡山藩、水戸藩の「松」を裏の目的とした日本庭園という隠れ蓑と言えます。水戸藩、加賀藩、岡山藩は、天皇の裏の仕事を担っていたと見ています。いずれも本来は水の地という光の地であり、裏の松の闇で封じられたのです。水戸の地は「水の戸。水の扉の地」とヒプノセラピーで伝えられています。水戸の地が本来の光の姿に戻ることを願っています。(おわり)