
12月9日、右足太腿の上部辺りに比較的強い痒みが生じました。幾度も痒みというサインが起きている場所であり、今回も鹿児島県霧島市辺りだと思いました。グーグルマップとネット検索をしながらワークの対象を探していきました。グーグルマップの「旧田中家別邸」が気になりました。《かごしまの旅》には、『旧田中家別邸は、海運業で財をなし私立福山中学校を故郷に創設した故田中省三氏が建造したもので、大正11年に完成しました。
邸内は建築資材、技師、職人まですべて阪神方面から集められて造られ、高価な特殊材料がふんだんに使われています。現在は県の有形文化財に指定されています。旧福山中学の歴史をたどる展示室や、迎賓館を思わせる洋間があり、細部にわたって装飾や技巧が施してあります。また、別邸とともに日本庭園も造られ、市指定文化財となっています。庭園には、噴水のある池を中心にツツジや桜が植樹され、桜島を望む一角には郷土の俳人・束野駄句楼の句碑があります』と書かれていました。
確かにグーグルの画像を観ると旧田中家別邸は、当時の上級国民の家そのものと想像できます。これまでのワーク経験から旧田中家別邸は、昔の裏の松の館としての"仁風林"の迎賓館だと感じました。伴侶に見てもらいながら闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「いいです。松」と伝えられました。やはり裏で松果体摂取が行われた場所のようでした。田中省三(たなかせいぞう:1858年-1925年)は、霧島市出身の明治から大正期の実業家、政治家(衆議院議員)です。
町田実有から漢学を学びました。1876年(明治9年)福山小学校を卒業後、同年に西南戦争で西郷軍に加わり、宮崎で官軍に捕らえられ細島に流罪となりました。その後赦免されて帰郷し、1882年(明治15年)鹿児島師範学校を卒業しました。福山小学校の教師を務め、1885年(明治18年)同郷で当時石川県庁勤務の川上親晴の推薦で能登半島の小学校長に就任しました。1年ほどで辞職して、奈良県五条の看守長、大阪地方裁判所書記などを歴任します。
その後、実業界に転じ、船舶、織物、醸造業などを経営。1894年(明治27年)、大阪の豪商・福永正七経営の福永商店に入店。その後、独立して海運業を営み、日露戦争、第一次世界大戦の需要で成長しました。立憲政友会の硬い地盤であった鹿児島県で、1915年(大正4年)3月の第12回衆議院議員総選挙で鹿児島県大島選挙区から無所属で出馬し、政友会鹿児島県支部からの圧力もありましたが当選しました。
その後、公友倶楽部、公正会に所属し衆議院議員に1期在任した。以後、実業界での活動に専念した。また、郷里への報恩のため私立福山中学校(現鹿児島県立福山高等学校)を設立して子弟の育英に務めました。田中省三の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「ワニ。仏教系の宗教をやっていたかもしれない」と伝えられました。"ワニ"ということは裏で松関係の工作員をしていたと感じます。
田中省三の宗教についてのネット情報は見当たりませんでした。ただ、「町田実有から漢学を学んだ」とwikiにありますので、中国の古典に基づく中国思想の可能性はあると思います。Wikipediaの内容から、田中省三は、西南戦争で流罪になった細島で松の関係の仕事をしていたと推測します。「細島」は、宮崎県東部にある地名の細島半島の所です。古くは江戸時代以前から江戸や大阪と東九州を結ぶ交易の中継地として発達しました。
西南戦争の際に有栖川征討総督の本営が置かれた「旧摂津屋」(宮崎県指定史跡)をはじめ、有形無形の文化財が多く存在します。西南戦争は、他の戦争と同様に、松取りという隠された目的があります。政府軍の本営が置かれた細島は、松取りの場所、松の運搬のための中継地としての港だと感じます。田中省三は、その後、海運業を営み「松」の運搬などの裏の仕事で経済的な収益を得て成功したのだと思われます。
wikiの「同郷で当時石川県庁勤務の川上親晴の推薦で能登半島の小学校長に就任した」という箇所も着目しました。能登半島の現石川県は、過去のヒプノセラピーでは、"加賀藩は松システムの中心"と伝えられています。加賀百万石の加賀藩は、松利権ネットワークの中心拠点だったからだと見ています。松利権の関係で石川県の小学校の校長になったと推察します。川上親晴(1855年-1944年)は、鹿児島県出身の内務官僚、政治家です。
県知事、京都市長、警視総監、貴族院議員を歴任しました。薩摩藩の加治木島津家家臣で書役を務める川上正兵衛の長男として生まれました。川上親晴の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「中国。松喰い」と伝えられました。やはり、川上親晴も松システムに関係する裏の仕事をしていたようです。《旧制私立福山中学校と日本のモデル学校構想》には、田中省三が旧制福山中学校を設立した経緯が詳細に書かれています。
明治六年政変で下野した西郷隆盛は、1874年(明治7年)、鹿児島県全域に私学校とその分校を創設しました。その表の目的は、西郷と共に下野した不平士族たちを統率することと、県内の若者を教育することでした。西南戦争の裏の目的は私学校の創設にあります。戦争に駆り出された若者たちを犠牲にした松取りを行うための布石だったと見ています。田中省三も裏の松の仕事から最終的には、教育の世界に携わりました。
子供や若者の魂の光を封じるための松取り工作員という役割だったと感じます。これまで多くの幼稚園、小中学校、高校や大学のワークを行ってきました。学校の設立者や経営者の多くが松取りの闇に関与していることが分かっています。学校教育の領域には、深い闇が潜んできたのです。しかし、日本大学の背任問題で、田中前理事長が逮捕されたことで、隠されて来た教育の闇が表に出る時が来ていると感じています。
子供や若者の大きな光を封印するための学校教育という支配の闇の仕組が終焉を迎えようとしています。旧田中家別邸の画像の中で、暖炉の上部に丸十の島津家の家紋が付けられている画像が印象に残っています。戦わせて松を取るという丸十字です。"裏インド"という松取りの深い闇を日本に広げる役割を担って来たのが薩摩藩でした。深い闇に覆われた薩摩・霧島の地が開かれて、本来の輝く地となることを願っています。