
グーグルマップで観ていくと、白浜鍾乳洞の300m東側に真言宗智山派 冨士山 寶泉寺があり、そこから約200m北東側の距離には、真言宗智山派
正栄寺(正榮寺)がありました。やけに真言宗智山派寺院が多いなと思いました。グーグルマップで「南房総市×真言宗智山派」で検索すると、房総半島先端の山塊の東側から南側を囲むように多くの真言宗智山派寺院が位置していました。寺院の印を数えてみると17箇所でした。
同じように、グーグルマップで「館山市×真言宗智山派」で検索すると18の真言宗智山派寺院が表示されました。館山市の真言宗智山派寺院は、山塊の北側から西側にかけて置かれていました。房総半島南端の山塊を囲むように寺院が置かれていることは、山塊を封じるための役割だったと感じます。湧水を生む山塊の地下の光を封印するために、鍾乳洞などの地下で松取り(松果体収穫)が行われて来たのです。
これ程の数の真言宗智山派寺院が房総半島南部に集中している理由は何かを調べてみても、明確な回答となる情報は見当たりませんでした。そうなると幾つかのヒントとなる情報を繋ぎ合わせて推察していくしかありません。南房総市-Wikipediaには、『本地域が位置する安房地域は718年(養老2年)に上総国から分かれ、明治初期まで安房国と呼ばれていた。国府は旧三芳村に置かれ、条里制の遺構も見られる。
かつては多数の荘園があり、これらは中世末まで統治者の交代を繰り返した』と記されています。また、安房国-Wikipediaには、『「古語拾遺」によれば、阿波国において穀物や麻を栽培していた天富命は、東国により良い土地を求め阿波の忌部氏らを率いて黒潮に乗り、房総半島南端の布良の浜に上陸し開拓を進めた。そして阿波の忌部氏の住んだ所は、「阿波」の名をとって「安房」と呼ばれたという』とあります。
"荘園が多数ある"ということは、先住民の松取りが古くから行われて来た事を意味します。阿波忌部氏は、一般的に「麻」を広めて来たと伝えられますが、実際は、逆で野生の麻を封じて来たと見ています。阿波忌部氏は、麻の封印と共に、先住民の魂の光を封じる"松取り"も行っていた可能性があります。中央集権体制の支配の闇としてのヤマト王権が生まれた頃から日本の重要な光の場所では、土地と人の光を封じることが行われて来たのです。
《徳島県-北海道のロスチャイルド・創価学会の松利権工作ルートから浮上する元横綱・白鵬の義父》にもありますが、ヤマト王権の拠点の西日本から見ると関東は、開拓地でした。明治時代の北海道開拓と同様に、先住民と土地の光を採取していたのです。「阿波」は穀物の「粟(あわ)」に由来します。個人的には、三次元の食物の「粟」は、魂の光である「松果体」を暗示していると捉えています。
「阿波」「安房」は「粟」が起源であり、「光のある場所」を示していると感じます。阿波国のある四国は、八十八箇所を創った真言宗の宗祖・弘法大師(空海)に繋がります。阿波忌部氏は、神社だけでなく寺院の下地も創って行ったと見ています。それは、一般的に神社を統括する別当寺が置かれて来た歴史があるからです。神社や寺院は別々に思えますが、いずれも裏の秦氏が伝えた原始キリスト教がベースにある宗教の施設と言えます。
阿波忌部氏の拠点の徳島県には真言宗寺院が多いです。それ故に、忌部氏が上陸した現在の千葉県館山市や南房総市に多くあるのだと推察します。真言宗智山派は、日本における仏教の宗派の一つです。弘法大師空海を始祖とし、真言宗中興の祖・興教大師覚鑁(1095年-1144年)を開祖とする新義真言宗と呼ばれる宗派の中の一つです。天正5年(1577年)に根来山の能化職となった玄宥(1529年-1605年)が、根来山智積院を復興させたことが端緒となりました。
天正13年(1585年)、秀吉による紀州征伐で焼き滅ぼされた根来山智積院は、慶長6年(1601年)、徳川家康の許可を受け寺領(豊国神社付属寺院の土地建物)を拝受し復興させたことを端緒に創建されることとなりました。《紀州を拠点とする鉄砲傭兵集団の根来衆と雑賀衆》のワークで開祖・覚鑁(かくばん)の御魂を上げていました。真言宗智山派の化主(智山派管長)・布施浄慧と総本山の智積院(京都府京都市東山区東瓦町)に闇の解除・統合を意図して光を降ろしました。
「トカゲ」「いいです」と伝えられました。真言宗智山派総本山の1つ下の格式の大本山は、成田山新勝寺(成田山・千葉県成田市)、金剛山平間寺(川崎大師・神奈川県川崎市川崎区大師町)、高尾山薬王院(高尾山・東京都八王子市高尾町)の3つです。いずれも関東地方であり、真言宗智山派が安房国を含めた関東地方を主に土地を管轄している事が分かります。成田山、金剛山、高尾山などの仏教寺院の名称には「山号」が付けられます。
山号とは、仏教の寺院の名称の前に冠する称号のことです。
多くの寺院は山の中に建てられたことから、その山の名前を寺院の名前の前につけるようになりました。山号とは、その寺院が封じる山を暗示していると見ます。"水"という"光"を生む鍾乳洞などの山の地下を封じることを意味しているのです。房総半島南端の山塊の地下が開かれるよう意図して光を降ろすと「いいです」と伝えられました。房総半島南端の山塊の地下の光が解放されることを願っています。(おわり)