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北海道十勝の開拓の祖として知られるのは「依田勉三(よだべんぞう)」です。十勝の開拓者の「依田勉三」と十勝の中心地である「帯広市」について調べていきました。依田勉三-Wikipediaには、『依田勉三(1853-1925)は日本の北海道開拓者。北海道開墾を目的として結成された「晩成社」を率い帯広市を開拓した。開墾に関わる業績から緑綬褒章を受章している。北海道神宮開拓神社の祭神。

 

依田家は甲州武田氏の流れを汲む伊豆国那賀郡大沢村(現:賀茂郡松崎町)の豪農で、勉三は善右衛門の三男として生まれた。19歳の時に上京しスコットランド出身でスコットランド一致長老教会の宣教師・医師ヒュー・ワデル(1840-1901)の英学塾(ワデル塾)に学び後に開拓の同志となる鈴木銃太郎・渡辺勝と知り合う。その後慶應義塾に進み、当時の新知識を吸収。福澤諭吉らの影響もあり、北海道開拓の志を立てたが、胃病と脚気のため2年在学の後中退し郷里に帰る。

 

明治12(1879)4月に従妹のリクと結婚し、この頃北海道開拓の志を固めた。明治14(1881)に、晩成社の代表発起人として単身北海道に渡る。晩成社は失敗に終わるが、開田事業は成功して、十勝開拓の父と呼ばれた』と記されています。ウィキペディアには明確になっていませんが、初期の開拓団「晩成社」のメンバーの依田勉三、鈴木銃太郎、渡辺勝は、いずれもキリスト教(プロテスタント)信徒でした。

 

キリスト教徒が北海道開拓に参加する目的は、アイヌ民族を主にした金儲けのための松取り(松果体収穫)です。依田勉三ら晩成社の単独ではなく、背後に大きな組織集団があったと見ています。20196月の十勝巡礼の旅の《北海道 黄金色の闇の光 ~巡礼の旅(510)~》のワークで、依田勉三、鈴木銃太郎、渡辺勝の3人に光を降ろして御魂を光に還していました。依田勉三のwikiから選んだワーク対象は、勉三の兄・依田佐二平(よださじべい)と宣教師・医師ヒュー・ワデルです。

 

ウィキペディアには『依田佐二平(1846-1924)は、明治・大正期の実業家、政治家、教育家で、旧中川村(現・松崎町)3聖人の一人。184621日、伊豆国那賀郡大沢村(現・静岡県賀茂郡松崎町)の依田家に第10代善右衛門貴人の長男として生まれ、幼名を清二郎と呼び、7歳の時に漢学者であり叔父である土屋三餘の開く「三餘塾」に塾生として学ぶ。その後江戸に留学し、1867年(慶応3年)、伊豆国那賀郡大沢村で11世として名主を嗣ぐ。

 

足柄県第九区長・静岡県議・那賀郡長などを歴任後、1890年(明治23年)に第1回衆議院議員総選挙に出馬して当選。また、産業の面でも、生糸製造同業組合長・大日本蚕糸会静岡支会副会長として多くの品評会へ出品を行って受賞したり、沼津・東京間の航路を松崎汽船会社として開くなどした。依田家は、伊豆国那賀郡大沢村で代々名主を務めていた』と記載されています。ウィキペディアには『ヒュー・ワデル(1840-1901)は、アイルランド出身の来日宣教師である。

 

1840年アイルランド長老教会の牧師ヒュー・ワデルの子としてアイルランドに生まれた。1859年の大覚醒の影響で宣教師への献身を決意した。1874(明治7)、スコットランド一致長老教会の日本宣教師へ応募して承認される。1874610日にワデル夫妻は横浜に上陸し、ロバート・デイヴィッドスンやヘンリー・フォールズが居住していた築地居留地18番に住んだ。クリストファー・カロザースが経営していた築地大学校の教師になった。

 

1876(明治9)に葺手町(現在の港区虎ノ門四丁目)に私塾「ワデル塾」を開設した』とあります。依田勉三は情報を得るために、依田佐二平とヒュー・ワデルは御魂を上げるために光を降ろすと「工作員」「工作員」「松伝授。松喰」と伝えられました。依田勉三、鈴木銃太郎、渡辺勝は、キリスト教宣教師で医師のヒュー・ワデルが開いた「ワデル塾」で松取りを伝授されたと推測できます。

 

依田勉三のwikiに『昭和16(1941)6月、中島武市によって帯広神社前に銅像が建立された』とあり、中島武市が気になりました。ウィキペディアには『中島武市(なかじまぶいち:1897-1978)は、日本の実業家・政治家。岐阜県本巣郡土貴野村(現在:本巣市)出身。シンガーソングライターの中島みゆきは孫(武市の長男の第一子)。実父は大垣藩士の家系の士族であったが早世し、母の再婚先の商家・中島家で育てられた。

 

1914年に岐阜商業学校を卒業した後、大阪の呉服問屋に丁稚奉公に出る。その後、名古屋の株屋を経て北海道に渡り、旭川で書店に勤める。その後帯広に移り、1920年に「古着商中島商店」を開くが、間もなく屋号を「みつわ屋」と改める。1921年頃に結婚、1924年に長男・真一郎(中島みゆきの父)が生まれる。1936年に帯広商工会の副会頭になり、1939年には帯広市実業連合会長・十勝商工会連合会頭に就任する。

 

1942年には帯広市議会議員に当選した。19439月には帯広商工会議所会頭(195011月まで)となる。1954年には帯広ロータリークラブ会長も務めた』と記されています。中島武市の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「ロスチャ」と伝えられました。ロスチャイルドの工作員のようでした。帯広市-wikiから歴代の帯広市長を見ていきました。初代帯広町長の10代奥野小四郎(1915(大正4)722-1915(大正4)1231)が目に留まりました。

 

ウィキペディアには『10代奥野小四郎(1857-1915)は、日本の篤農家、実業家、政治家。衆議院議員、兵庫県津名郡洲本町長、北海道河西郡帯広町長。旧姓・富永、初名・守次郎。淡路国津名郡(後の鮎原村、現洲本市)で富永包方の二男として生まれる。徳島藩校で漢学、撃剣を修め、その後英語を学んだ。1877年、洲本町の商人・9代奥野小四郎の死去に伴い、その養嗣子となり10代小四郎を襲名。

 

1881年、淡路汽船()を起こし翌年社長に就任。淡路紡績()社長、淡路製陶()社長などを務めた。その他、洲本町長、洲本町会議員、洲本商工会会長、津名郡会議員、同郡会議長、同郡参事員、徴兵参事員、兵庫県会議員などを歴任。18931月、第2回衆議院議員総選挙の兵庫県第二区補欠選挙で当選し衆議院議員となった。19014月、来道して上川郡士別村で農場の経営を企画し、二か月後に帰郷し、翌19022月、小作農民を伴い再度来道して農場を開き、その後水田も拓いた。

 

19033月、第8回衆議院議員総選挙の兵庫県郡部区に立憲政友会所属で出馬し当選。衆議院議員を通算二期務めた。その後、士別村会議員、士別村農会長、上川産牛馬組合評議員などを歴任。190910月、帯広町に移り、十勝国中川郡居辺原野で牧場を経営した。1915722日、一級町初代帯広町長に就任。第二回十勝物産共進会の開催、図書館建設などを進めたが、同年12月、在任中に病死した』と記載されています。

 

10代奥野小四郎の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「動物の松取り」と伝えられました。牛馬を中心とする動物の松取りから得られる金である松利権が十勝は非常に大きいと見ています。人間の松は高価ですが牛馬を主とする動物の松に比べると金の桁が違うと踏んでいます。動物の松は、サプリや化粧品、添加物に広く利用されています。過去のヒプノセラピーでは、『松果体成分を食品添加物、化粧品に混ぜて人間のエゴを強くする』と伝えられました。

 

また、10代奥野小四郎は、徳島藩の管轄の淡路島出身です。これまでのワークから馬の産地は大きな松利権が存在することが分かっています。淡路島と馬について調べると《淡路島にかつて馬が沢山存在していた証》を見つけました。淡路島は馬の産地だったのです。これが徳島の地に大きな松利権がある1つの要因だと感じます。徳島-北海道の松利権のルートは馬の繋がりから自然と生まれたと理解しています。(つづく)