12月20日の夕方、PCに向かって記事を書いていると頭上に何か黒い影がちらついた感じがしました。「誰かがいる」と思いました。ちょうど十勝のことやトーチカの配置図を詳細に調べている時でした。前日にも伴侶がリビングで私と勘違いした人影を感じたと話していました。何か闇のエネルギー体が来ていると感じて、伴侶の同席の下で、人影を意図して光を降ろしました。
「兵隊さんだと思う」と伴侶が伝えて来ました。人影の存在は光に還って行きました。すぐに腹部中央のやや左側の箇所が痛みました。「神戸周辺」の場所で「八咫烏」だと思いました。八咫烏の仕事をする表に出ない軍人だと感じました。過去のヒプノセラピー《存在を消された日本の軍人が光に還る》では、『金のために天皇の周囲で人身売買をして来た。植民地でパーティーを開き女性を集めた。
上流階級の人たちに売った。何万人もの女性たち。拠点は長崎と東京・赤坂』と伝えられていました。表に出ない軍人は、天皇の命で資金集めのために女性の人身売買をしていたのです。存在を消された表にでない八咫烏の仕事をする軍人は数多くいたと感じます。十勝のトーチカを調べていたので、表に出ない軍人が松取りに関係していたと推測しました。トーチカは、鉄筋コンクリート製の防御陣地を指す軍事用語です。
日本語では特火点(とっかてん)と訳されます。英語ではその形や用途からピルボックス(pillbox、錠剤ケースの意)と呼ばれ、掩体壕(バンカー)の一種に分類されます。トーチカが城塞と区別される点は機関銃やそれに準ずる自動火器、あるいは小型高性能火砲の登場でごく小規模な単位で、敵部隊の攻撃を阻止できるようになった事です。日本においても、遺構として北海道の根室市-苫小牧市にかけての太平洋岸に複数のトーチカ群が残されています。
硫黄島では、破壊された一式陸上攻撃機を活用した掩体壕の残骸を現在も見ることができます。北方領土には、ソ連がトーチカとして設置したIS-3重戦車が放置されています。また、トーチカは演習場内に監的壕として造られることもあり、山田野演習場(青森県)や強首陸軍演習場(秋田県)などに遺構が残っています。十勝毎日新聞には、『十勝の沿岸の海は遠浅ではなく、海岸近くまで深い海が続いていることから、米軍上陸の有力地点と想定されていた。
このためトーチカが多く、約40基が作られたといわれる。現在、町で把握しているのは、大樹で16基、広尾で10基、浦幌で4基』と記されています。戦争遺跡とされるトーチカは、戦争を隠れ蓑にした松取り工作の一部です。過去の調査とワークから戦時中の地下壕・地下要塞の多くが松取りのために作られたと見ています。《ロシアの調査で謎とされる千島列島・松輪島の旧日本軍の地下要塞》は分かりやすい事例です。
ロシアの調査団は『「ある丘の下にはおそらく司令官の官邸が置かれていたのか、地下の風呂場まであった。完全なる地下都市だ。その機能がなんであったのか、我々は結局明らかに出来ずじまいだった』と伝えています。千島列島の松輪島で、千島アイヌを対象とした日本軍による松取りが行われていたのは間違いないと思います。地下都市のような施設を作っていることから、少なくとも松輪島の軍にはトカゲが関与していたと感じます。
当時の十勝のトーチカ配置と日本軍の拠点を知る上で有用になったのが《十勝海岸の防御陣地》です。『1944(昭和19)年の夏から秋にかけて、歩兵第28連隊を中心に、十勝海岸において水際防御作戦用の陣地構築が行われた。具体的には、汀線直後の段丘にコンクリート製トーチカを築き、機関銃による斜射・側斜ができるようにした。また、翌年5月からは、歩兵第26連隊を中心に、十勝海岸から大樹にかけて陣地の縦深化がなされたが、実戦を経験することなく終戦をむかえた』とあります。
十勝の海岸沿い・旭浜を含むトーチカがある一帯に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「いいです。トカゲが配置。運んでやっていた」と伝えられました。やはりトカゲが配置して松取りが行われたようでした。「十勝海岸の防御陣地」の地図に掲載された「十勝海岸の防御陣地・複郭陣地(阿寒湖・雌阿寒岳・雄阿寒岳の一帯)」に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「地下がある」と伝えられました。
阿寒湖・雌阿寒岳・雄阿寒岳の一帯の地下にはトカゲの棲家になっており、日本軍を使ってアイヌの松取りが行われていたと感じます。アイヌ-Wikipediaの《シャクシャインの戦い前後のアイヌ地域集団》によると十勝の海岸沿い地域には「メナシクル」というアイヌ民族が生活していました。松取りで亡くなった人の留まった魂が光に還るよう意図して光の柱を立てると「いいです」と伝えられ、足が温かくなりました。(つづく)