全国最大規模の精神科である都立松沢病院の関係者をwikiから拾い出して、光を降ろすエネルギーワークを行いました。初代院長(東京府病院長)の長谷川泰(1842年-1912年)は、幕末期の越後長岡藩軍医、濟生學舎(済生学舎:日本医科大学の前身)の創立者、内務省衛生局長、衆議院議員です。越後国古志郡福井村(現・新潟県長岡市福井町)で長岡藩医漢方医・長谷川宗斎(春)の2男1女の長男として生まれます。
文久2年(1862年)江戸に出て坪井為春(芳州)に英語、西洋医学を学びます。その後、佐倉藩の佐藤泰然の順天堂に入門して長崎でポンペから外科手術学を修得して帰ってきた佐藤尚中に西洋医学を学び、特にフーフェランドの内科書 Enchiridion Medicumの巻末にある「医学必携」に感銘し、「済生救民」思想を体得します。慶応4年(1868年)戊辰戦争の勃発により、北越戦争で河井継之助に三人扶持で雇われ長岡藩に藩医として従軍し、河井継之助の最期を看取りました。
長谷川泰は、オランダ人軍医のポンペから西洋医療を習っていることから隠された松取りの医療を伝授されたと見ています。戊辰戦争に長岡藩医として従軍して実践も経験していると感じます。長谷川泰の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「半島。工作員」と伴侶が伝えて来ました。第3代院長(東京帝国大学医科大学精神病学教室初代教授)の榊俶(さかきはじめ:1857年-1897年)は、明治期の医師、医学博士です。
父は蘭学者の榊令輔で、弟の榊順次郎と榊保三郎も医学者です。
明治13年(1880年)に東京大学を卒業後、明治15年(1882年)にベルリン大学に留学し精神病学を専攻しました。明治19年(1886年)に帰国、帝国大学医科大学教授に就任し、精神病学教室を開設、帝国大学医科大学草創期において精神病、精神衛生、小児精神論、看護法を講じ、剖検、司法精神鑑定相馬事件など幅の広い活動を行ないました。榊俶の御魂が上がるよう意図して光を降ろしました。
「やり過ぎた感がある。実験をやり過ぎた。健常者を実験台にして松取りした。やり過ぎて殺された」と伝えられました。実際に、榊俶は41歳という短命でした。《改訂版・江戸東京医史学散歩》によると『榊俶は、明治29年(1896)夏頃より咽頭の病気にかかり、第一医院へ入院。病理解剖診断は食道癌、顕微鏡診断は偏平上皮癌でした』と書かれています。しかし、榊俶は、陸奥中村藩(福島県相馬市)の相馬氏のお家騒動の相馬事件に関与していました。
相馬事件は、過去世の私も榊俶と反対の立場で関係しています。相馬事件の隠された本質は、相馬氏の家督という松利権の争いだったと見ています。相馬誠胤(そうまともたね:1852年-1892年)を精神病者として座敷牢に監禁して、法廷闘争に及びました。相馬誠胤を診察した医師の1人が榊俶でした。相馬誠胤は、毒殺されたと見ています。約40歳で命を終えた相馬誠胤とほぼ同じ年齢で命を終えた榊俶は、カルマの解消のためだったと感じます。
巣鴨病院院長(東京帝国大学精神病理学講座主任教授)の呉秀三(くれしゅうぞう:1865年-1932年)は、武蔵国江戸(現・東京都港区)出身の医学者、精神科医です。日本における近代的な精神病学の創立者で、クレペリン学派の新しい精神病学の普及を通じて、精神病患者の監護法を改めました。日本における最初の精神衛生団体である精神病者慈善救治会を組織(1902年)、三浦謹之助と共に日本神経学会を創立しました。
呉秀三の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「闇。中国系。精神を病む武器を作った」と伝えられました。精神科病院という名前の医療施設ですが、実状は、人体実験と松取りという731部隊の様相を呈しています。呉秀三と広島の同郷であり、共著共同編集している著作も多い富士川游(ふじかわゆう)もワークの対象としました。富士川游(1865年-1940年)は、安芸国沼田郡長楽寺村(現・広島県広島市安佐南区長楽寺)出身の医学者、医学史家です。
医師・藤川雪の子に生まれます。雪は医師であるとともに和歌・漢詩にも優れ、1872年の壬申戸籍作成時に「藤川」を佳字である「富士川」と改名しています。 1879年、藩校浅野学校(現・修道高等学校)から広島県立中学(現・国泰寺高等学校)に転学を経て1887年、広島医学校(現・広島大学医学部)卒業しました。富士川游の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「工作員」と伝えられました。
呉秀三がドイツで神経病理学を師事した教授がクラフト・エービングです。クラフト・エービング(1840年-1902年)は、ドイツおよびオーストリアの医学者、精神科医です。クラフト・エービングは、性的倒錯の研究書として著名な「性的精神病理」を1886年に公刊しました。サディズムという用語を創案したことで、今日でもよく知られています。また、同時代の作家であるレオポルト・フォン・ザッハー=マゾッホの名からとってマゾヒズムという用語を造語しました。
ザッハー=マゾッホは半ば自伝的な小説である「毛皮を着たヴィーナス」の中で、美しい女性に鞭打たれ、その奴隷となって従属させられる欲望を述べています。クラフト・エービングの御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「精神エロ。ペド。みんなペド」と伝えられました。都立松沢病院の現院長は水野雅文です。《ホスピタルルズ・ファイル》によると水野雅文院長の経歴は、『1986年慶應義塾大学医学部卒業。
1992年同大学院医学研究科博士課程修了後、1993年から1995年までパドヴァ大学心理学科に留学、同大学客員教授。帰国後、慶應義塾大学医学部精神神経科学教室講師、助教授を経て2006年東邦大学医学部精神神経医学講座教授に就任。2021年4月より現職。日本精神神経学会理事、日本社会精神医学会理事長』と記されています。水野雅文に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「トカゲ。ペド。半島」と伝えられました。
都立松沢病院の敷地と隣接する世田谷区立将軍池公園は、北沢川(目黒川の上流)の水源地帯であり、地下には地底世界があります。本来、地底世界は、鍾乳洞のように、岩から水が生まれる光の世界です。光の地底を闇にして封印するために松取り(松果体収穫)に関与するトカゲの棲家になったのです。トカゲは人間の魂の光を採取して生きて来ました。松沢病院の闇の役割が終わり、その地が本来の姿になることを願っています。(おわり)