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浜口吉右衛門家と日本の醬油製造の流れについて、wikiの中で記されています。『浜口家は代々醤油醸造をした家系で、銚子の醤油醸造業の多くは、紀州湯浅醤油の流れを汲むもので、関東好みの濃口醤油の基盤が築かれた。浜口吉右衛門家(東浜口家)も、正保2(1645)創業というヤマサ醤油(西浜口家)も出自は和歌山県有田郡である。江戸に出張店を設け、そこに出荷が集中する時期もあったが、販売の拡大する19世紀初頭は、出荷先に江戸の有力醤油問屋が名前を連ねている。

 

なかでももっとも大口の出荷先が日本橋小網町の広屋、浜口吉右衛門家であった。その後、吉右衛門家の末裔がヒゲタ醤油の経営に参画し、現在に至る。初代浜口吉右衛門は紀州出身の浜口安太夫忠豊で、醤油醸造が盛んだった下総国飯沼村(現・千葉県銚子市)に醤油蔵を設け、浜口吉右衛門に改名したのが始まりである』。《コロナワクチンの原料を製造するヤマサ醤油と紀州から銚子に移った意味》には、ヤマサ醤油関連のワークについて書いています。

 

日本の醬油製造の1つの流れが和歌山県湯浅町から千葉県銚子市へ移行です。和歌山県湯浅町と千葉県銚子市には、いずれも重要な構造線があり、2つの構造線を封じるための松取りの闇の役割としての醬油製造と捉えています。闇の時代は、光が放たれる山や構造線を封じることが重要になります。湯浅醤油は日本における醤油発祥の地の一つとして知られる和歌山県有田郡湯浅町で作られる醤油であり、現在も数社が醤油を製造しています。

 

現在も湯浅醤油を製造している会社の1つが「湯浅醬油有限会社」です。公式サイトを見ると「九曜むらさき」という名称もあり、「九曜紋」を家紋としているようです。過去のワークでは、大本(大本教)、伊豆山神社、細川氏など九曜紋は松取り(松利権)と密接な繋がりがあると分かっています。湯浅醬油の公式サイトには、『日本醤油発祥の地、湯浅醤油の起源は金山寺味噌にあり』と記載されていました。

 

『紀州湯浅は醤油発祥の地です。その起源は鎌倉時代(1254年頃)、紀州由良の禅寺「興国寺」の開祖「法燈円明國師(ほっとうえんみょうこくし)」が中国(南宋)の径山寺(きんざんじ)から金山寺味噌(径山寺味噌)の製法を持ち帰ったのが始まりです。当時大変栄えていた町・湯浅は水質が良かったこともあり、ここで盛んに醸造されるようになりました。この醸造過程で野菜の水分が樽の上に「溜まり」として出てきます。

 

これを調味料として改良したのが現在の醤油の起源(湯浅醤油)といわれ、ここから全国に広がりました』と記されています。金山寺味噌の溜まりが、今の醬油の起源のようです。法燈円明國師(1207-1298)は、無本覚心(むほんかくしん)とも言われます。信濃(長野県)出身で臨済宗法灯(ほっとう)派の祖である鎌倉時代の僧です。東大寺で受戒し、高野山で退耕行勇(たいこうぎょうゆう)に師事しました。

 

建長元年(1249)に宋(中国)にわたり、無門慧開(むもんえかい)の法をついで6年帰国します。紀伊由良(和歌山県)西方寺(興国寺)の開山であり、亀山・後宇多両天皇の帰依をうけました。光を降ろす前に、紀州由良興国寺の法燈國師座像の画像を観ると「エネルギー体が残っている」と伴侶が伝えて来ました。法燈円明國師のエネルギー体が還るよう意図して光を降ろすと「トカゲの上層部。闇の叡智を使った」と伝えられました。

 

闇の叡智という言葉から、醬油という広く使われる調味料に松成分が入れられた歴史を感じます。過去のヒプノセラピーでは、人間のエゴを強くして闇にするために松成分を食品添加物などの混ぜて使われることを伝えられていました。湯浅醤油の社長・新古敏朗と本社に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「上級用と分けている」「いいです」と伝えられました。銚子の醤油醸造-Wikipediaによると、銚子の醤油醸造からヤマサ醬油、ヒゲタ醬油などの醬油製造会社が生まれました。

 

ヤマサ醬油は、過去にワークを行っていたので、ヒゲタ醬油についてワークを行うことにしました。wikiには『ヒゲタ醤油株式会社は、東京都中央区に本社を置く醤油などの調味料メーカー。かつては「銚子醤油」という社名。社名は、田の四隅にヒゲがついたようなトレードマークに由来する。工場や営業などの拠点は創業地である千葉県銚子市にある。1616(元和2)を創業とし、企業キャッチコピーは「江戸の味を伝えて4世紀」。

 

関東地方の醤油メーカーでは歴史が古い会社のひとつである。社名及び商標の「ヒゲタ」の由来は、創業家である田中家の屋号「入山田」にちなむ。 大坂夏の陣の翌年で、江戸開府から13年後の1616(元和2)、下総国・銚子(現 千葉県銚子市)の豪農、第三代田中玄蕃が、摂津国・西宮(現・兵庫県西宮市)の酒造家、真宜九郎右衛門の勧めで、銚子で溜醤油の醸造を始めたのが同社の起源である』とあります。

 

銚子醤油の初代社長・浜口吉兵衛(1868-1940)の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「闇」と伝えられました。ヒゲタ醬油の社長・加瀨泰美と東京都中央区日本橋小網町の本社に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「日本DS。創価」「いいです」と伝えられました。《楽食マガジン》によると、醬油メーカーのシェアランキング(2019)は『1位:キッコーマン 2位:ヤマサ醤油 3位:正田醤油 4位:ヒゲタ醤油』となっています。

 

千葉県銚子の醬油醸造からヤマサ醤油とヒゲタ醬油が生まれています。醬油醸造のもう1つの流れがキッコーマンと正田醤油の源流となる「野田醤油」です。正田醬油-Wikipediaには『正田醤油株式会社は、群馬県館林市栄町にある醤油の老舗メーカー。屋号は「キッコーショウ」。上皇后美智子の実家が創業家である。米穀商が投機的であると考えていた三代正田文右衛門が、千葉県東葛飾郡野田町(現・野田市)の二代茂木房五郎より醤油醸造業を勧められ、醤油醸造業を創業した。

 

館林の正田記念館に二代茂木房五郎より贈られた醤油醸造に関する経営指導書がある』と記されています。正田醤油の創業者・三代正田文右衛門の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「真面目な人」と伴侶が伝えて来ました。正田醬油の相談役・正田宏二、社長・正田隆、本社(群馬県館林市栄町)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「日本DS」「仁風林」「いいです」と伝えられました。醬油醸造が生まれた土地は、本来、大事な光の地だったと感じています。(つづく)