新島八重にゆかりの人物として、新島八重のwikiに載っていた「山本覚馬(実兄)」「川崎尚之助(元夫)」「土倉庄三郎(支援者)」をワークの対象に選びました。Wikipediaには『山本 覚馬(1828年-1892年)は、幕末の会津藩士、砲術家、明治時代の地方官吏、政治家。京都府顧問、府議会議員(初代議長)として初期の京都府政を指導した。また、同志社英学校(現:同志社大学)の創立者・新島襄の協力者として、現在の同志社大学今出川校地の敷地を譲った人物としても知られている。
宗教はキリスト教(プロテスタント会衆派→カトリック教会)』と記されています。山本覚馬は、禁門の変での負傷、また持病の白内障の悪化等が原因で、不幸にも眼病を患い、ほとんど失明同然の状態でした。様式砲術の関係で私の過去世とも縁があると感じました。山本覚馬の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「工作員。松喰い」と伝えられました。元夫の川崎尚之助のwikiには、『川崎尚之助(1836年-1875年)は、江戸時代末期(幕末)の洋学者、会津藩士。
江戸に出て、坪井為春らに蘭学、舎密術(化学)を学び、神田孝平、加藤弘之らと並ぶ屈指の洋学者として知られたという。江戸において会津藩士・山本覚馬の知遇を得て、会津藩藩校・日新館の蘭学所において蘭学を教授し、鉄砲・弾薬の製造も指導した。慶応元年(1865年)、山本覚馬の妹・八重(新島八重)と結婚。会津戦争では、八重と共に鶴ヶ城籠城戦に参加した。その後の尚之助について、江戸において手習いの師匠として暮らしたとの説が有力であった。
しかし、2011年(平成23年)に北海道立文書館にて発見された史料によると、会津松平家の家名存続が許され下北半島に3万石で立藩された斗南藩に移住、外国商人と米の取引を行うが詐欺に遭ってしまったために訴訟を起こされ、裁判中の東京で肺炎のため死去したとされている』とあります。ネット情報には顔写真もなく美談が多いこと、約40歳という短命であった点が気になりました。川崎尚之助の御魂が上がるよう意図して光を降ろしました。
「この人は殺された。八重の秘密を知った」と伝えられました。やはり口封じされたようでした。新島襄・八重夫妻の関係者で一番注目したのが奈良県吉野の山林事業家で自由民権運動の主導者・板垣退助の財政的後ろ盾となっていた「土倉庄三郎(どぐらしょうざぶろう)」です。wikiには、『土倉庄三郎(1840年-1917年)は、日本の林業家、奈良県多額納税者。族籍は奈良県平民。明治期における吉野林業および日本林業の先覚者、指導者であった。
1840年5月11日(天保11年4月10日)、大和国吉野郡大滝村(今の奈良県吉野郡川上村大滝)で生まれる。土倉庄三郎の長男。父の庄右衛門も林業家だった。1856年(安政3年)に父に代わり家業に従事、名を庄三郎と改める。その後、大滝郷総代、吉野材木方総代(伐採した木材を運搬する際の監督役)を務めた。また奈良公園の森林改良にも携わる。このような功績から還暦には山縣有朋から「樹喜王」の祝号を贈られている。
教育には極めて熱心であった。私費で地元の川上村に奈良県初の小学校を開設した。同志社大学・日本女子大学の創設に際しては多額の設立基金を寄付するなど、物心両面の協力を惜しまなかった。自身の子供の教育にも熱心であり、男女11人の子供のほとんどを同志社に通わせている。次女のマサ(1871年生まれ)は同志社女学校のほか、米国ペンシルベニア州のブリンマーカレッジ(1897年卒)でも学ばせた。
明治10年(1877年)頃から自由民権家らと交流し、明治13年(1880年)には、中島信行の遊説の際に資金を提供して以降、自由民権運動のパトロンと目されるようになる。明治14年(1881年)に大阪で立憲政党(近畿自由党)が結成されると、これに加わり日本立憲政党新聞(明治15年・1882年創刊、大阪毎日新聞の源流の一つ)の出資者となる。また自由民権運動の主導者として知られる板垣退助とも親交があり、彼の西欧視察の洋行費を出している。
さらに大隈重信とも昵懇であった。この他、景山英子、金玉均、新島襄らとも交流があった。「土倉詣で」をした賓客として、中島・板垣・新島の他に伊藤博文・井上馨・山縣有朋・後藤象二郎・品川弥二郎・古沢滋・成瀬仁蔵等が知られている』と記載されています。実は、土倉庄三郎が居住していた奈良県吉野郡川上村は、後南朝(吉野朝遺臣)の拠点でした。南北朝時代以降、南朝の天皇が裏に回って松利権の支配をしていたと見ています。
《新しい人生という光を道を歩む転機となる闇の経験》のヒプノセラピー記事では、富山県南砺市の「五箇山(ごかやま)」に言及しています。五箇山は、山々に囲まれた盆地で、遊女伝説が残る流刑地である隠れ里でした。松取り後の生の松に防腐剤として裏で使う塩硝(硝酸カリウム)の産地です。塩硝の表の目的は黒色火薬の原料です。100万石の加賀藩の裏の資金源だったと見ています。吉野の川上村でも、同じ裏の金儲けが行われていたと感じます。
土倉庄三郎が政界財界の著名人と交流があり、資金提供をしていたのは、その証だと思います。土倉庄三郎は、裏天皇の松利権支配を守る八咫烏関係の役割を担っていたと推測しています。奈良吉野には大事な光の地底もあります。現実的には奈良吉野の自然の光である木々を金に換える闇の役割もしていました。土倉庄三郎の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「アーク。プレアデスの闇もある」と伝えられました。(つづく)