1200px-Kanoya_Air_Base_Aerial_photograph.2013


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2日、朝起きると右膝に痛みがありました。前日までは何ともなかったので、明らかにワークの場所を教えるサインだと思いました。痛んだ右膝の部分は、大隅半島の中央部の鹿屋市だと感じました。過去のワーク《特攻基地としての軍都・鹿児島》では、鹿児島県鹿屋市(かのやし)を含めた日本の軍都に光を降ろしていました。鹿屋市は、特攻隊の基地を有していました。特攻隊は、正式には特別攻撃隊と呼ばれます。

 

敵機への体当たり攻撃を前提とした決死の任務を行う部隊のことです。1936年に日本海軍航空隊の基地が置かれ、真珠湾攻撃訓練の中核地となり、第二次世界大戦中は特攻隊の出撃基地でした。戦後も海上自衛隊鹿屋航空基地が置かれ、現在でも国防の一大拠点都市となっています。知覧特攻平和会館のワークから特攻隊は、若い兵士を犠牲にした松取り工作であることが分かっています。それ故、鹿屋市も松取りの闇が引継がれた地だと感じます。

 

鹿屋市について調査とワークを行っていきました。鹿屋市-Wikipediaには『鹿屋市は、鹿児島県にある市。九州南東部、大隅半島の中央部に位置する。人口10万人を擁する、大隅半島の行政・経済・産業の中核となる都市である。年間の平均気温17℃という温暖な気候と豊かな自然を活かした農業・畜産が盛んであり、黒豚やブロイラー、落花生、サツマイモなどが特産品である。また、国立大学の鹿屋体育大学や海上自衛隊鹿屋航空基地がある。

 

鹿児島県内では鹿児島市(県庁所在地)・霧島市に次いで3番目の人口規模を有する都市である。現在の鹿屋市は2代目であり、旧鹿屋市と肝属郡の2(吾平町・串良町)、曽於郡1(輝北町)との合併により2006年に発足した。初代・鹿屋市の市制施行は1941527(海軍記念日)である』と記されています。また、軍都の関係で、『防空壕も数多く残されており、2000年には道路陥没による死者が発生している』とありました。

 

日本最多の地下壕数が暗示する松利権の拠点としての薩摩の地》から鹿児島県は地下壕や防空壕の数が全国一であり、多くの人たちが松取りの犠牲になっていることが推測されます。逆に言えば、それだけ鹿児島の地は、大事な光の場所だったということです。wikiには、鹿屋市の市名の由来について書かれていました。『市名の由来は、鹿屋市史によるといくつかの説があるといわれている。

 

1.古事記、日本書紀に登場する「熊襲(くまそ)の首長鹿文(かや)」の名によるという説。2.周辺に多く自生していた茅(ちがや)の名が、「かのや」に転訛したという説。3.鹿(しか)が多く棲息しておりそこから「かのや」になったとの説。 歴史的にみると、平安初期には「かのや」の地名で呼ばれていたということである』。「熊襲」は日本の先住民のことです。熊本と同様に鹿児島でも熊襲の先住民の松取りが古くから行われて来たのです。

 

「茅」「鹿」も、地球に自然と野生動物を降ろしたシリウスの光の証であり、本来、鹿屋の地が純粋な場所であることが分かります。鹿屋市で、支配の闇の役割をしている市長が気になりました。鹿屋市長は、中西茂(なかにししげる)です。wikiには『中西茂(1953-)は、日本の政治家。鹿児島県鹿屋市長(3)。鹿児島県鹿屋市出身。1972(昭和47)3月、鹿児島県立鹿屋高等学校卒業。1976(昭和51)3月、九州大学経済学部卒業。

 

同年4月、鹿児島県庁へ入庁。2011(平成23)4月、同庁の農政部長に就任。2013(平成25)89日、翌年の鹿屋市長選挙への立候補を視野に入れ、鹿児島県庁を退職。2014(平成26)119日に行われた鹿屋市長選挙に無所属で出馬。自由民主党の推薦を受けた現職の嶋田芳博市長との一騎討ちを制し初当選した。25日、市長就任』と記載されています。中西茂に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「創価」と伝えられました。

 

裏の松利権集団である創価学会の工作員のようです。大日本帝国陸海軍の松取りの闇を引継ぐと推測できるのが自衛隊基地です。鹿屋市には、軍都の歴史があり、「海上自衛隊鹿屋航空基地」が目に留まります。wikiには『鹿屋航空基地は、鹿児島県鹿屋市西原に所在し、第1航空群等が配置されている海上自衛隊の基地。主に哨戒機搭乗員の教育訓練基地及び救難ヘリコプターの航空基地として、日本の南西海域の安全保障と、奄美群島から甑島列島に及ぶ広大な海域・離島の海難・急患輸送を担当する部隊が利用する。

 

戦前から使われている航空基地であり、神風特別攻撃隊の出撃基地でもあった。滑走路脇には、今でも零式艦上戦闘機の掩体壕が残されており、司令部庁舎も戦前に建造されたものが2015年まで使用されていた。なお、特攻基地の規模としては、人員・機体数ともに全国的に有名な知覧(南九州市)を上回る。アメリカ海軍やアメリカ海兵隊にとっては、普天間飛行場に移動するヘリコプター部隊が、途中給油に立ち寄る重要な航空基地である』と記されています。

 

鹿屋航空基地で気になるのが、所属部隊の事故の犠牲者の多さです。wikiに書かれているものだけでも、1961年から2016年までの55年間に7件の事故が発生して、36名の隊員が犠牲になっています。特攻隊を含めた古くからの松取りの闇が深いことが暗示されます。鹿屋航空基地の第1航空群司令・藤原直哉(ふじわらなおちか・海将補)と鹿児島県鹿屋市西原の所在地全体に闇の解除・統合を意図して光を降ろしました。

 

「黄緑色のタコ。宇宙人」「いいです」と伝えられました。鹿屋航空基地の前身は、1936(昭和11)に創設された大日本帝国海軍鹿屋海軍航空隊です。《日本軍によって秘密裏に建造された50箇所の地下壕から成る八戸要塞》では、ワークで鹿屋航空基地の一帯に光を降ろしていました。《旧海軍航空隊笠野原基地地下道入口》などの情報から、鹿屋航空基地の周辺には松取りを暗示する地下施設があることが分かっています。(つづく)