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鈴木商店の創業者は、初代鈴木岩治郎です。初代鈴木岩治郎(1837- 1894)は、明治の実業家です。武蔵国川越(現埼玉県川越市)の足軽の次男として生まれます。生後すぐに魚屋に養子に出されますが、12歳頃に養子先から出て菓子商の丁稚となります。その後神戸、長崎へ菓子屋奉公をしながら移り住み、大阪の米雑穀問屋の辰巳屋の下働きとなります。辰巳屋は小間物商から始まり、砂糖商としても成功していました。

 

初代・鈴木岩治郎は、1874(明治7)に店の一つを譲り受け神戸に鈴木商店を開業します。1877(明治10)に、姫路銀行の頭取岡玖平の媒介で姫路の漆商丹波屋の娘・西田よねと結婚します。よねは再婚でした。1882(明治15)に神戸石油商会を設立、樟脳、ハッカと商いを広げていきました。1886(明治19)には神戸有力八大貿易商のひとつにまで発展しました。初代・鈴木岩治郎の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「純粋だった。仲間割れで殺された」と伝えられました。

 

二代目鈴木岩治郎(1877-1945)は、初代とよねの長男・徳治郎として生まれ、初代の没後、家督を継いで二代目鈴木岩治郎となります。1923(大正12)に、台湾銀行の主導により鈴木商店は持ち株会社的な「鈴木合名会社」と事業会社としての「株式会社鈴木商店」に分割され、二代目岩治郎は「鈴木合名」の筆頭理事社員、「株式鈴木」の副社長に就任します。1918(大正7)、柳原義光を社長に担ぎ上げ、鈴木商店幹部の金子直吉らとともに大正生命保険会社重役に就任します。

 

1919(大正8)には、台湾に不動産開発の日本拓殖株式会社を設立します。1926(昭和元年)時点で、鈴木グループ各社(神戸製鋼所、沖見初炭鉱、日本教育生命保険、東洋燐寸、大正生命、日本拓殖、帝国汽船、浪華倉庫、日本商業)の役員を兼任していた。1929(昭和4)9月、フランスのレジオンドヌール勲章シュヴァリエを妻・鈴木よねが授章しました。二代目鈴木岩治郎の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「DSになった」と伝えられました。

 

初代・鈴木岩治郎は純粋でしたが、鈴木商店が拡大していく二代目鈴木岩治郎から大金が絡む松利権に関わって来たことが推測できます。鈴木商店の名前を広く知らしめた存在が大番頭の金子直吉(かねこなおきち)です。金子直吉(1866-1944)は、高知市出身の実業家です。丁稚奉公から身を起こし、鈴木商店の「大番頭」として大正時代には三井財閥、住友財閥、三菱財閥をしのぐ規模の企業グループに拡大させ財界のナポレオンともいわれました。

 

慶応2(1866)、土佐藩領内で商家の子として生まれます。一家は直吉の幼少期に現在の高知市に移り住みます。家が貧しいため学校にも行けず、10歳頃から高知市内に丁稚奉公に出ます。荷車を引いて紙くずを集めたり砂糖店や乾物屋、質屋への丁稚奉公へ出ました。独学で経済や中国古典などを学び、明治19(1886)20歳で神戸の砂糖問屋・鈴木商店に入ります。鈴木商店はすでに神戸八大貿易商の1つに数えられるようになっていました。

 

明治27(1894)に当主の鈴木岩治郎が死去すると、未亡人の鈴木よねが直吉と柳田富士松の両番頭に委任し、事業を継続します。その直後、直吉は樟脳の取引で損失を出しますが、よねはそのままの体制で経営を続けます。明治32(1899)、直吉は当時の台湾総督府民政長官の後藤新平と交渉し、専売制を目論んでいた後藤と通じ台湾樟脳油の販売権のうち65%を獲得します。虫除けの必需品で、欧米にも輸出し大きな利益を上げました。

 

明治35(1902)に鈴木商店が鈴木合名に改組されたときには、社員に加えられました。明治36(1903)に住友樟脳製造所を買収し、福岡県に大里製糖所を設立しました。明治38(1905)、神戸製鋼所の前身の小林製鋼所を買収、大正4(1915)には米沢の織物工場を買収し人造絹糸の事業(のちの帝人)を始めました。金子直吉の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「土佐。樟脳。松取り。日本DS」と伝えられました。

 

鈴木よね(1852-1938年)は、1918年に「日本で最も裕福な女性」と評された日本の実業家です。鈴木よねは2人の息子を持つ未亡人として、亡き夫の事業である鈴木商店を引き継ぎ、マネージャーの金子直吉を信頼して多くの戦略的決定を下しました。1900年、砂糖、不動産、樟脳を含む取引で大金を稼ぎました。ペパーミント工場を立ち上げ、神戸製鉄所を買収し、樟脳製造、製糖所、製粉所での事業を拡大しました。

 

彼女は魚油と豆油を生産するための工場を建設し、船隊を所有し、ヨーロッパ、北アメリカ、オーストラリア、およびアジアの他の場所を含むいくつかの国際的な場所に鈴木コングロマリットの支社を追加しました。鈴木よねの御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「人身売買。松喰い。日本DS」と伝えられました。鈴木商店が三井・三菱・住友の財閥をしのぐ規模に成長して、松利権網を拡大して来た流れが分かります。

 

鈴木商店が立ち上げた「ペパーミント工場」も、裏では松取り(松果体収穫)のマスキングに利用されていたと捉えています。ペパーミントは「ハッカ」です。白檀、樟脳、ハッカといった強い匂いのある植物は、松取りの血生臭さの臭い消しとして密かに用いられていたのです。また、ハッカは、北海道北見市が有名です。《北見ハッカ記念館》によると『明治35年頃から生産が始まった北見ハッカは昭和14年に全盛期を迎えました。

 

当時世界薄荷(はっか)市場の約70%を占めるまでに成長し、現在の北見の礎を形成する重要な産業となりました』と記されています。北見ハッカの最盛期の昭和14年は、西暦1939年で、日本が1894(明治27)の日清戦争から1945(昭和20)の終戦までの暗黒トンネルの戦争の道の真っただ中に入っている時です。北見市が、工作拠点となって闇を引継いできたことや戦争という松取り工作にハッカが大量に使用されて来たことが示唆されます。(つづく)