東海大学の前身の1つである「航空科学専門学校」の校長は、野田清一郎です。コトバンクには『大正・昭和期の電気工学者 生年:明治16(1883)年10月6日
没年:昭和43(1968)年5月10日 出生地:岡山県 旧姓(旧名):赤枝
学歴〔年〕:京都帝大理工科大学電気工学科〔明治41年〕卒 学位〔年〕:工学博士〔大正9年〕 経歴:京大講師から明治43年助教授。大正7年欧米留学、コーネル大学客員教授を務め、9年熊本高等工業専門学校教授。
15年旅順工科大学教授、昭和6年学長、16年依願退職、名誉教授。のち航空科学専門学校長、電気研究所長を経て、24年大阪工業大学長となった。のち近畿大学教授』と記されています。野田清一郎の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「DS工作員」と伝えられました。また、wikiには、航空科学専門学校の理事6名の氏名(有馬頼寧、大河内正敏、松前重義、伍堂卓雄、安藤紀三郎、梶井剛)も掲載されています。
有馬頼寧(1884-1957・ありまよりやす)は、有馬記念創設者で、久留米藩第15代有馬氏当主です。《有馬記念創設者の有馬頼寧から浮上する同和の闇》から松利権所有者であると感じていました。有馬頼寧、松前重義(1901-1991:東海大学創立者)を除く航空科学専門学校の理事4人のワークを行いました。大河内正敏(1878-1952:物理学者・理化学研究所所長)、伍堂卓雄(ごどうたくお・1877-1952:政治家・実業者・満鉄顧問)の御魂が上がるよう意図して光を降ろしました。
「魂が汚いくせに上級を好む人」「中華ヤクザ」と伝えられました。安藤紀三郎(1879-1954:陸軍軍人・大政翼賛会副会長・A級戦犯釈放)、梶井剛(1887-1976:東海大学初代学長・石川県加賀市)の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「とことん騙された人」「特級工作員」と伝えられました。航空科学専門学校の理事の多くが松利権に関係する工作員と捉えました。東海大学のもう1つの前身である電波科学専門学校の校長が仁科芳雄(にしなよしお)です。
wikiには『仁科芳雄(1890年-1951年)は、日本の物理学者である。岡山県浅口郡里庄町浜中の出身。日本に量子力学の拠点を作ることに尽くし、宇宙線関係、加速器関係の研究で業績をあげた。日本の現代物理学の父である。死去から4年後の1955年、原子物理学とその応用分野の振興を目的として仁科記念財団が設立された。この財団では毎年、原子物理学とその応用に関して著しい業績を上げた研究者に仁科記念賞を授与している。
ニールス・ボーアのもとで身に着けたその自由な学風は、自由で活発な精神風土を日本にもたらし、日本の素粒子物理を世界水準に引き上げた。仁科の主催する研究室からは、多くの学者が巣立っていった。朝永振一郎、坂田昌一が代表で多くの孫弟子がいる。仁科の影響の及ばない素粒子論の研究者は少ない』と記されています。仁科芳雄の重要な業績の1つが、加速器の開発・建設と加速器関係の研究です。
『1935年、理化学研究所に原子核と放射線生物学を研究するために三井報恩会、東京電燈株式会社、日本無線電信株式会社等の寄付で原子核実験室が設けられた。1937年4月には小型27インチのサイクロトロン(核粒子加速装置)を完成させ、そしてその小型サイクロトロンで1939-1940年に実験を始めた。1939年2月には200トンもの大型サイクロトロン本体を完成させ、1944年1月から実験を始めた』とwikiにあります。
仁科芳雄は、1920年に理化学研究所の研究員補となり、欧州に留学します。デンマークのコペンハーゲン大学のニールス・ボーア研究室で5年半の間、研究員として研究に励みました。仁科芳雄の師となるニールス・ボーア(1885年-1962年)は、デンマークの理論物理学者です。量子論の育ての親として、前期量子論の展開を指導、量子力学の確立に大いに貢献しました。ボーアの原子模型の確立などにより、1922年にノーベル物理学賞を受賞しました。
第二次世界大戦が始まり、ナチス・ドイツがヨーロッパでの侵略を始めると、ユダヤ人を母に持つボーアはイギリスを経由してアメリカに渡っています。仁科芳雄とニールス・ボーアの御魂が上がるよう意図して各々に光を降ろすと「上級工作員」「トカゲ」と伝えられました。仁科芳雄は、加速器や原子力などの物理学領域での松利権工作に関わる重要人物と見ています。加速器の関連施設は、松利権のための地下施設のカモフラージュです。
《ノーベル物理学賞の李政道と米国ブルックヘブン国立研究所の裏側》などの加速器関連の過去のワークから、日本や欧米の加速器やカミオカンデなど物理学関連の施設は、松システムに繋がっていると考えています。アドレノクロムや食人関連施設などの松利権の闇の隠れ蓑として物理学の研究施設が作られてきたと推測できるのです。仁科芳雄は、米国のマンハッタン計画よりも前の日本の原爆開発にも深く関係しています。
wikiには『1940年(昭和15年)4月、安田武雄陸軍航空技術研究所長は、雑誌などで紹介されている核分裂に注目。陸軍航空本部付きの鈴木辰三郎中佐にウランを用いた新型爆弾の開発研究を命令した。鈴木中佐は東京帝国大学の嵯峨根遼吉教授の指導の下に1940年10月、報告書を安田中将に提出した。安田中将は東京理化学研究所の大河内所長に秘密裏に研究を依頼して、大河内は仁科研究所に研究課題を託した。
このことにより1941年春頃、仁科研究所で原子爆弾の理論的可能性の検討に入った。海軍の原子爆弾の研究は解散したが、アメリカで原子爆弾開発「マンハッタン計画」が始まった翌年1943年(昭和18年)5月頃、仁科研究所はウランの分離によって原子爆弾が作れる可能性を報告書によって軍に提示する。陸軍はこの報告に飛びついて、陸軍航空本部の直轄で、研究を続行させる。この年から理研の仁科研究室が中心になって原子爆弾の開発がおこなわれることになった。
この開発は、仁科の「に」から「ニ号研究」と呼ばれた。しかし結局、1945年(昭和20年)のアメリカ軍の空襲(日本本土爆撃)によって設備が焼失し、日本の原爆開発は潰えることになる』と記されています。米国の原子力爆弾と原子力発電につながるマンハッタンプロジェクトが松利権の闇のカモフラージュであれば、日本の原爆開発も同じです。ネット検索していくと「原爆地上起爆説」という原爆のフェイクを示唆する仮説を見つけました。(つづく)