鹿児島県指宿市にある花瀬望比(はなぜぼうひ)公園が第二次世界大戦のフィリピンの戦いの戦死者の慰霊の地としての公園である事から、「フィリピンの戦い」を調べていきました。ウィキペディアは、フィリピンの戦い(1941-1942年)とフィリピンの戦い(1944-1945年)の2つがありました。概略は、フィリピンの戦い(1941-1942年)で、米国植民地だったフィリピンを日本が占領し、フィリピンの戦い(1944-1945年)で米国が日本が占領したフィリピンを奪還したのです。
フィリピンの戦い(1941-1942年)は、1941年12月8日の太平洋戦争勃発とともに日本軍はフィリピンの連合国軍と戦闘を開始し、1942年6月9日までに孤立した部隊を除き連合国軍の全部隊が降伏して戦闘は終了しました。フィリピンの戦い(1944-1945年)は、1944年から1945年の第二次世界大戦後期のフィリピン奪回を目指す連合国軍と、防衛する日本軍との間で行われた戦闘で、連合国軍の勝利に終わっています。フィリピンの戦い(1941-1942年)では、米国と日本がそれぞれ戦う計画を立てていました。
wikiには、『フィリピンは1899年以降アメリカの植民地となっていた。アメリカは、想定される日本による攻撃からフィリピンを守るため、1924年にオレンジ計画を具体化していた』『日本は1923年に帝国国防方針を改定してアメリカを仮想敵国の第一位としており、対米戦の基本構想としては、開戦後速やかにフィリピン主要部を占領し、極東におけるアメリカ軍の根拠地を奪う作戦が検討されていた』とあります。日本は「フィリピン作戦」という計画を立てていました。
戦争において作戦は当たり前かもしれませんが、何か違和感を覚えます。フィリピンの戦い(1941-1942年)の交戦勢力は、枢軸国(大日本帝国・台湾)と連合国(米国・フィリピン)で、結果は日本軍の勝利に終わります。戦死者数は、枢軸国4,130、連合国25,000となっています。フィリピンの戦い(1944-1945年)の交戦勢力は、連合国(米国・フィリピン・オーストラリア・メキシコ・フクバラハップ)と日本側(大日本帝国・マカピリ)で、結果は連合国の勝利に終わります。
フクバラハップとは、フィリピン共産党の指導の下、第二次世界大戦中にフィリピンで結成された抗日組織です。マカピリとは、太平洋戦争(大東亜戦争)中にフィリピンで日本を軍事支援していたフィリピン人による組織で、日本側の正式呼称は比島愛国同志会です。米国を主とする連合国も、日本側もフィリピンの人たちを自軍の軍隊に組入れているのです。フィリピンの戦い(1941-1942年)よりも、圧倒的に犠牲者が多いのが、フィリピンの戦い(1944-1945年)です。
wikiによると、戦死者数は、アメリカ陸軍 戦死 31,973、アメリカ海軍死傷7,270、フィリピン連邦軍多数、フィリピン一般市民犠牲者
約100万であり、日本側の戦死・戦病死 約430,000となっています。特に、「フィリピン一般市民犠牲者
約100万」というのが全てを物語っていると感じます。フィリピンの人たちの命を犠牲にして裏で金儲けしている構図が垣間見えます。フィリピンの戦い(1944-1945年)で、日本側の指揮官が陸軍大将・山下奉文(やましたともゆき)です。
連合国の指揮官が米国陸軍元帥・ダグラス・マッカーサーです。山下奉文-Wikipediaには、『山下奉文(1885年- 1946年)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将、高知県出身。陸士18期・陸大28期恩賜。太平洋戦争の劈頭、第25軍司令官として英領マレーとシンガポールを攻略した武功、「マレーの虎」の異名で知られる。1885年(明治18年)11月8日、開業医である父・佐吉、母・由宇の次男として高知県長岡郡大杉村(現大豊町)に生まれる。
1941年(昭和16年)1月8日から4ヶ月間、同盟国ドイツへの視察団(陸軍遣独視察団)の団長として訪独。ドイツの先進兵器を調査し情報を収集するとともに(超短波警戒機乙)、アドルフ・ヒトラー総統との面談や、戦車戦戦術の専門家であったハインツ・グデーリアン上級大将との懇談を果たしている。統治に際しては「バナナ・ノート」と呼ばれる軍票を発行したり、宝くじを発売するなどして財源確保に努めている。降伏後は戦争犯罪人としてフィリピンのマニラにて軍事裁判にかけらた。
マニラを「オープン・シティ(非武装都市)」にしなかったことやパラワン虐殺の責任を問われ死刑判決を受けた。1946年の2月23日早朝、山下は帝国陸軍大将としての軍服および一切の勲章も着用しないまま、米軍のカーキーシャツとズボン、緑色の作業服姿で絞首刑に処された。享年60』と記されています。山下奉文が、ドイツに視察に訪れて、アドルフ・ヒトラーやハインツ・グデーリアンと面会していることがポイントになると感じます。
ダグラス・マッカーサー-Wikipediaには、『ダグラス・マッカーサー(1880年-1964年)は、アメリカ合衆国の軍人。アメリカ陸軍元帥、連合国軍最高司令官、国連軍司令官などを歴任した。1880年にアメリカ合衆国アーカンソー州で生まれ、1896年にウェストポイント陸軍士官学校を首席で卒業した。1935年にフィリピン軍の創設に携わり、翌1936年にはフィリピン軍の元帥となった。第二次世界大戦では大日本帝国からフィリピンを奪還し、1944年にアメリカ陸軍元帥に就任した。
第二次世界大戦後、1945年から1950年まで連合国軍最高司令官(GHQ)として日本を占領した。日本における最高権力者として君臨し、各種の占領政策を行って民主化を進めたほか、国民主権・平和主義などを柱とする日本国憲法の制定に影響を与えた』と記されています。山下奉文の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「信じてやっていた。洗脳されていた。洗脳している人が側にいた。オーディン』と伝えられました。日本軍現場トップの山下奉文はエネルギー体のオーディンに操られていたようです。
《鉤十字や黒い太陽の起源となる戦争と死の神・オーディン》にオーディンについて書いていますが、魔力を与えるオーディンに支配されていたので、人命を犠牲にして裏の金儲けを行うことが正しい事と思っていたのだと見えます。ダグラス・マッカーサーの御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「最後は殺されたと思う」と伝えられました。フィリピンの戦いの指揮官だった山下奉文やマッカーサーは、ある意味、純粋な面を持っていた人たちだったようにも思います。(つづく)