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1日、太平洋戦争(大東亜戦争)についてネットで調べていると、腰骨に近い左側の腹部に軽い痛みが出てきました。内観すると「高知県」だと思いました。四国の高知は、以前から工作の場所だと感じていました。《中国・朝鮮による松果体収穫が日本の光を封印する闇の仕組》のシリーズ記事にありますが、高知市の五台山周辺には、高須の地名があり、高須から高須クリニック院長を連想します。表は韓国ヘイト・嫌韓でも裏で韓国と繋がっている松利権の工作員です。

 

朝鮮半島の人々が裏で日本を支配している構図が存在しており、最終的には、楠木正成という八咫烏の松取りの工作員に繋がっていました。高知の地は、大事な光の地である故に、古くから八咫烏の闇で封じられて来たと捉えています。左腹部の痛みは、旧日本軍基地と関係していると感じて、高知県・旧日本軍基地でネット検索していくと「宿毛湾泊地(すくもわんはくち)」に行き着きました。wikiには、『宿毛湾泊地は、大日本帝国海軍が高知県の宿毛湾に設けていた泊地。

 

主に宿毛湾沖の太平洋での演習を終えた艦隊が休息を行うため利用されていた。1936年の二・二六事件の際は演習のため停泊していた第一艦隊が反乱軍鎮圧のため宿毛湾泊地から出撃している。宿毛湾泊地は演習後の艦隊休息以外に、呉海軍工廠のある瀬戸内海から近いという立地上の都合から海軍の試験海域としても利用されており、速度測定用のマイルポスト(航路標識)もあったため全速航行試験(海上公試)を行う機会が多かった』と記されています。泊地とは、船が停泊する場所です。

 

宿毛湾は、高知県の南西部に位置し愛媛県と境を接する宿毛市にある湾です。フィリピンなどの大東亜共栄圏の地域からの松の海路運搬には格好の場所です。さらに、宿毛湾泊地を調べていくと《宿毛基地 日本帝国海軍基地》を見つけました。サイトには、宿毛基地の各施設の写真と説明書きが掲載されていました。私が注目したのが海岸沿いにある大規模な「弾薬庫」と魚雷艇庫とされる「洞窟」の数々です。『弾薬庫:道沿いにある、コンクリート製の仰々しい建物に弾薬庫とのこと。

 

危険物を貯蔵していたので、建物は不燃性のコンクリで造られています。 その厚さは測れませんでしたが、現在でも全く崩れそうに無い様子から やはり頑丈に造られていることを伺うことができました』『倉庫の中:閉塞部まで25mほど。 今まで見てきた壕と違い、一番奥の壁までコンクリ巻です。しかし、これは後から塞いで短くなったものでした。他の壕より一回り大きいのは指令壕的な役割からか? もしかすると、初めに見た崩落していた壕と内部で繋がっていたのかも?

 

と言うような位置関係ですが・・・崩落していた壕と繋がっていたそうです』と記載されています。 日本帝国海軍基地の宿毛基地は、広い地下壕の様相を呈していたようです。弾薬庫(火薬庫)は、火薬を貯蔵する倉庫です。戦争には、松取りのために様々な工作が成されています。「火薬」もその1つです。《徳川幕府の砲薬製造所が起源となる自衛隊精鋭が結集する防衛省目黒地区》にありますが、火薬の原料とされる硝石(塩硝)は、実は、肉の防腐剤として現在でも使用されています。

 

塩硝の名産地でもる白川郷の五箇山などの隠れ里では、古くからトカゲが化けた支配層の権力者たちのための食人用の塩漬け肉をつくっていたと見ています。食人用の塩漬け肉は、支配層で売買されてきたのです。《Guts Diary》には、日本の支配層の要人が集まっているツイート画像がリンクされています。要人は、安倍晋三元首相、森喜朗元首相、小泉純一郎元首相、岸田文夫現首相、加藤勝信元官房長官、笹川陽平・日本財団会長などです。今は、皆、替え玉になっています。

 

皿の上に乗っている肉片を思われる物は何かです。ピンク色に発色した肉片のようなものが見えます。古くから支配層の人間たちが摂取しているものが、宿毛基地で、作られていた可能性を感じます。トカゲが変身した人間が支配層を形成して、生贄の子供などの人間の肉の塩漬けを食べる風習が伝わってきました。恐らく松取り後の肉を使っていて、地底のトカゲも深く関与しています。宿毛基地全体と地下を意図して光を降ろすと「いいです」と伝えられました。

 

日本郵船をつくった岩崎弥太郎は土佐出身で、樟脳で大きな利益を得ていたことが重なります。樟脳は、松取り・食人の作業の際に、血生臭さの臭い消しに使われていたと推測しています。樟脳利権は、バナナ利権と同様に、松利権なのです。土佐の三菱源流の岩崎弥太郎・宿毛市で検索すると「小野義真(おのぎしん)」がヒットしました。wikiには、『小野義眞(1839-1905)は、明治時代の実業家。1839(天保10)48日、土佐藩宿毛(現高知県宿毛市)の大庄屋の家に生まれた。

 

三菱財閥の顧問となって、岩崎弥太郎を補佐した。重大事案では必ず岩崎は小野の意見を聞いたうえで決断したという。1877(明治10)、西南戦争が起きた際には、汽船の購入を岩崎弥太郎に進言、東京から九州の戦場まで武器弾薬や食糧の輸送を一手に引き受けさせて、財を築かせた。1879(明治12)、渋沢栄一が中心に東京海上保険が設立された際、岩崎が筆頭株主になる交渉を担った。1881(明治14)26日、日本鉄道の設立計画に際して、岩崎から個人的代表として送り込まれた。

 

岩倉具視より日本鉄道会社設立主任に抜擢されて、政府や資本家相手に奔走し、資本金1,000万円(現在の数千億円)の会社設立に成功した』とあります。小野義真は、岩崎弥太郎の懐刀であり、松システムを構築した渋沢栄一とも関わっていました。小野義真の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「ワニ。元々、松などをやっていた」と伝えられました。やはり、小野義真は、地元で松取りなどの裏の仕事もしていました。宿毛市のwikiで気になったのが「沖の島(おきのしま)」です。

 

沖の島は、四国・高知県の南西部、宿毛湾および大月半島の南西沖の太平洋上に所在する島です。沖ノ島には、三浦一族の開拓伝説があります。『鎌倉時代中期 - 三浦一族の開拓伝説/弘瀬部落の開拓伝説によれば、鎌倉幕府の幕臣・三浦則久(三浦新助則久)は何らかの事情あって失脚し、一族郎党を従えて、伊予国三津浜から船出、沖の島に漂着した後、妹背山南麓の仏が峠(標高340m)に居を構えて開墾し、のちに弘瀬地区に移って開拓・統治した』とあります。

 

過去のワークから、古くから平氏のように戦(いくさ)の敗者は、地方に流れて、密かに松取りを行って来たことが分かっています。表世界から姿を消して裏世界に回るのです。平家落人伝説の場所は、松取り場所になっているのです。宿毛湾の沖の島も、三浦一族が松取りを行った場所だと見ています。高知の宿毛の地は、島々があり、古くから松取りの闇が引継がれて来た場所です。隠されて来た松取り・食人の闇の仕組が終焉を迎えることを願っています。(おわり)