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札幌大通ワクチンクリニックの院長・大森紅己子についてネットで調べると、イムス札幌内科リハビリテーション病院公式サイトのドクター紹介に『出身:大学札幌医科大学 平成16年卒 専門:整形外科』と記載されていました。平成16(2004)札幌医科大学卒から1980年前後の生まれだと思われます。出身大学の札幌医科大学(札医大)から調査とワークを進めていくことにしました。過去のワークで、札幌医科大学の関係者には光を降ろしていました。

 

札幌医科大学の関連ワークが暗示する人体実験の闇》から初代学長・大野精七(1885-1982)のワークを通じて、満州国や北海道開拓時代に、731部隊に通じる松取りを含めた人体実験の闇があり隠されてきたと推測しています。現実的には、1968(昭和43)88日、和田寿郎を主宰とする札幌医科大学胸部外科チームは、世界で30例目となる心臓移植手術が実施されました。しかし、札幌医科大学で行われた日本初の心臓移植手術をめぐる和田心臓移植事件に発展しました。

 

心臓弁膜症の18歳の男子高校生のレシピエントの死後、それまでくすぶっていた疑惑が一気に噴出しました。それは胸部外科が発表したすべての事実を否定するほど多岐にわたるものであったといいます。196812月、和田心臓移植は大阪の漢方医らによって刑事告発されます。1970年夏に捜査が終了し、告発された殺人罪、業務上過失致死罪、死体損壊罪のすべてで嫌疑不十分で不起訴となりました。Wikipediaには、『札幌医科大学は、北海道札幌市中央区南1条西17丁目に本部を置く日本の公立大学である。

 

1950年に設置された。札幌医科大学附属病院は北海道大学病院と共に、北海道の中核的病院に位置づけられている。大学は、医学部と保健医療学部の2学部4学科からなる医学系大学。1950年北海道総合開発の一環で北海道立女子医学専門学校(1945年創設)を前身とする道立大学として開学。医学部を設置』と記されています。初代学長・大野精七の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「工作員」と伝えられました。札幌医科大学の理事長・学長は、山下敏彦(元附属病院病院長)です。

 

メディカルノート》によると経歴は、『1983-札幌医科大学医学部卒業 1987-札幌医科大学大学院卒業 医学博士取得 1988- 米国ウェイン州立大学ポスドク留学 1996- 札幌医科大学整形外科 講師 1999- 札幌医科大学整形外科 助教授 2002- 札幌医科大学整形外科 教授 2014札幌医科大学附属病院長』とあります。札幌医科大学の理事長・学長とキャンパス全体に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「工作員」「いいです。札幌全体が東京のように地下がある」と伝えられました。

 

東京都同様に、札幌の地底が闇になり、地下要塞が出来ていると見ています。札幌医科大学と併設されている附属病院は、wikiには、『札幌医科大学附属病院は、札幌市中央区にある札幌医科大学の大学病院。医科大学附属の総合病院であり、北海道で唯一の高度救命救急センターや基幹災害医療センターに指定されている。また、「北海道エイズ治療ブロック拠点病院」や「北海道高度がん診療中核病院」に認定されるなど、北海道の医療・保健・福祉の発展に寄与している。

 

前身は1932(昭和7)設置の「北海道社会事業協会附属札幌病院」であり、1945(昭和20)に「北海道庁立女子医学専門学校附属医院」となった』と記されています。札幌医科大学附属病院の病院長は、土橋和文です。《AOI.コミュニケーションズ》によると経歴は、『1981年 札幌医科大学医学部医学科 卒業。1984年 国立循環器病センター内科心臓部門レジデント。1989年 ロンドン大学セント・トーマス病院レーン研究所心臓血管部門研究員。

 

2008年 札幌医科大学医学部内科学第二講座 准教授。2012年 札幌医科大学医学部 病院経営・管理学教授。2015年 札幌医科大学附属病院 副院長。2018年 札幌医科大学附属病院 病院長就任』とあります。札幌医科大学附属病院病院長に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「アーク系のレプタリアン」と伝えられました。過去のワークでは、札幌医科大学附属病院に光を降ろすと、多くのトカゲが光に還っていった経験があります。大学病院や有名病院の地下では、トカゲたちが闇の仕事をしているのです。

 

次に、札幌大通ワクチンクリニックが所在している北海道札幌市中央区南1条西5丁目の「愛生舘ビル」に着目しました。愛生舘ビル公式サイトには、『愛生舘ビルは、札幌の歴史のまさに原点・「本府」に位置し、今もこのまちの町内会は、「本府連合町内会」として開拓当時の意志、「本府の心」を受け継いでいます。愛生舘ビルは、明治24(1891)年創業の医薬品卸業・株式会社秋山愛生舘の本社があった場所です』と記されています。「本府」とは、札幌の中心部のことです。

 

愛生舘ビルには、医薬品卸業・株式会社秋山愛生舘の本社があったのです。wikiには、『株式会社秋山愛生舘は、「愛生館」の36処方薬を北海道地区で独占販売する企業として設立。「医薬品」製造・「医薬品」「衛生材料」の卸・小売を中心とする日本の企業であった。現在はスズケンである。地盤の北海道ではシェアの30%を超えるトップ企業であった。北海道札幌市東区北6条東3丁目1 「愛生館」は、1888(明治21)、高松保郎が、東京で創業。

 

明治政府は西洋医学を推進した為に、薬代が高騰し一般庶民が医師の診療を受けられなくなった。高松保郎は「弘道愛民主義」を掲げ売薬業を開業。高松保郎は、創業理念に「療病のために必要な諸般の薬剤を製造して発売し、山間へき地にいたるまで、薬餌を得ることができないために夭折したり、長病を患うことのないようにする」とした。「愛生館」に設立当初から関わったのが、初代秋山康之進であった。初代社長秋山康之助は、千葉県幕張武石にて佐倉藩典医・芝田元達の次男として誕生した。

 

明治16年秋山新八の嗣子となった。「愛生館」千葉県販売特約店の「雷鳴堂」(代表者・川口新之丞)に雇用され京都・大阪の代理店の責任者として販売拡大を図る。若くして実績と信頼を高め、26歳のときに台湾の台北駐在を依頼されたが、これを断り北海道支部の開設を任された。1891(明治24)、愛生館北海道支部は札幌市南1条西6丁目に開設、康之進はその支部長に就任、しかし、開設まもなく館長の高松保郎が、56歳で他界し北海道支部は閉鎖することになり、康之進は東京へ引き揚げることになった。

 

しかし、近隣の人びとの懇願によって札幌にとどまることを決意し、独立自営して秋山愛生舘を創業。「愛生館」の処方薬を販売していたので「秋山愛生舘」としたが、館と舘を変えて社名としている』と記載されています。秋山愛生舘の創業者・高松保郎の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「人体実験やっている。捕らわれた人たちに対して」と伝えられました。札幌大通ワクチンクリニックが所在する愛生館は、北海道の歴史における医療の闇の源流だと感じます。(つづく)