六本木の「ピラミデビル」と「六本木ヒルズ」の調査とワークから「毛利家」が気になっていました。六本木ヒルズの前身が「長府毛利家の江戸藩邸」だったからです。六本木ヒルズのWikipediaの歴史には、『江戸時代に、麻布日ケ窪町(現在の六本木6丁目)に長府毛利家(長州藩支藩の長門府中藩)の江戸藩邸が置かれた。長門府中藩(長府藩とも。現山口県下関市の一部)出身の乃木希典もこの地で生まれている。明治時代には、法律家・増島六一郎の邸宅になった。
第二次世界大戦の戦災に遭った後、1952年にニッカウヰスキーの工場、後に日本教育テレビ(NETテレビ)(後の全国朝日放送(ANB)→テレビ朝日(EX))の敷地となった』と記されています。また、毛利庭園にも言及されています。『かつては広大な毛利家の庭園が残っていた(毛利甲斐守邸跡)。園内の池はニッカ〜テレ朝時代にニッカ池という通称がついている。現在、敷地内には面積約4300平米の毛利庭園が設けられ、「毛利池」があるが、これはニッカ池とは異なる。
かつての庭園遺構は毛利池の下に埋土保存されている』とあります。日本は、薩長が先導する明治維新によって深い闇の仕組が構築されました。長州藩の藩主・毛利家の闇の解除・統合のワークは必要不可欠でした。長州藩士・吉田松陰の松下村塾によって多くの志士とされる工作員が輩出されました。また、安倍晋三など長州の地から多くの内閣総理大臣が生まれてきました。中国大陸・天皇派の薩摩に対する朝鮮半島・米国派の長州の2大勢力によって数々の松取り工作が成されました。
薩長が率いる松利権の工作活動によって、日本が暗闇にされてきた裏の歴史があるのです。wikiにあるように、広大な毛利家の庭園は、以前は「毛利甲斐守邸跡」でした。甲斐守(かいのかみ)とは、甲斐国(現・山梨県)の国守のことで、現在の山梨県の県知事のような役職だったと思います。最近のワークで多く出てくる山梨県は、古くから悪魔崇拝の闇につながる食人や松という大きな利権があった場所です。甲斐守だった毛利家は、大きな松利権を有していたと捉えています。
毛利家の江戸上屋敷(藩邸)の設立者は、初代長府藩主の毛利秀元(1579年-1650年)です。毛利家最後の江戸上屋敷の所有者は、長門国長府藩3代藩主の毛利綱元(1651年-1709年)です。毛利秀元と毛利綱元の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「半島」「半島工作員」と伝えられました。やはり朝鮮半島からの渡来人の系統のようです。毛利家の家祖は、毛利季光(もうりすえみつ)です。wikiには、『毛利季光(1202年-1247年)は、鎌倉時代前期の武士。鎌倉幕府の御家人。
大江広元の四男。3代将軍・源実朝に仕え、鶴岡八幡社参行列では前駆に加わった。実朝の死後出家し、入道西阿と称した』と記されています。毛利家の家祖が大江広元の四男だとは知りませんでした。大江広元は、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に出てくる源頼朝の側近の貴族です。wikiには、『大江広元(おおえひろもと:1148年-1225年)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての貴族。はじめは朝廷に仕える下級貴族(官人)だったが、鎌倉に下って源頼朝の側近となった。
鎌倉幕府と公文所(後の政所)の初代別当を務め、幕府創設に貢献した』と記されています。大江広元と広元の四男で毛利家の家祖・毛利季光の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「裏インドのエネルギー」「いいです」と伝えられました。裏インドのインドとは、生贄の女神カーリーに由来するものです。インドで行われた表の生贄の反対の裏の松取りを意味します。隠す闇とエゴ・金をベースにすることで、肉体の命に関わる死や苦痛の深い闇となります。
実は、裏インドの闇に繋がる松利権網は、鎌倉幕府をつくった源頼朝から始まったのです。例えば、「巻狩(まきがり)」という言葉がありますが、これは中世に遊興や神事祭礼や軍事訓練のために行われた狩競(かりくら)の一種とされます。鹿や猪などが生息する狩場を多人数で四方から取り囲み、囲いを縮めながら獲物を追いつめて射止める大規模な狩猟だといいます。実際に、古くから人間社会では、食料を得るために、野生動物を狩ることは行われていたと感じます。
それが、人間のエゴが大きくなっていくと、動物の松取りになり、人間の松取りになったと推測しています。《マタギの探求から分かった複数の工作員から成る平賀源内の正体》には、『マタギの人は、山で熊などの野生動物を狩猟するので、感覚的には山の民である「サンカ」の人だと思いました。サンカの人たちの起源は、渡来人の支配下で松果体収穫をしていた人たちです』と記載されています。マタギの集落は、自然豊かな東北地方の秋田県などに多くあります。
また、《源頼朝の富士の巻狩から見える真実が隠蔽された歴史的な出来事》には、『巻狩は、動物が対象ではなく先住民の人たちを虐殺し松取りするための嘘の意味に変えられた。源頼朝の富士の巻狩は、水源のある光の地を封じるために行われた先住民の松取りが目的だった』とあります。源頼朝の鎌倉時代の頃から巻狩と称して先住民の松取り工作が行われていたのです。光の土地や純粋な人たちを封印して深い暗闇にする嘘の闇・工作の闇が置かれてきました。
《隠された加賀の松果体システムが表に出て最後になる》にありますが、源頼朝の頃から鎌倉を中心とする日本の松利権網が構築されてきたのです。鎌倉は、水の場所という光の地である故に、その光の地を封じるための大きな闇である松システムの中心となりました。生の松から保存と運搬が出来る丸薬・錠剤、アドレノクロムという松製品に変わると鎌倉から加賀の地に松システムの中心が移りました。江戸時代の「越中富山の薬売り」の影響が大きいと見ています。
越中富山の薬売りの行商人は、松の工作員だった可能性が高いです。加賀の地も水の場所であり、土地の光を封じて暗闇にする意味があります。現在も、製薬会社や受託メーカーが多い加賀藩の地だった今の富山県・石川県が松システムの中心の役割を担っていると見ています。松利権に通じる裏インドの闇は、源頼朝によって日本各地に広げられました。日本の重要地である下関を有する長州藩藩主の毛利家も、また、頼朝による裏インドの闇を引継いだ氏族だったと見ています。(つづく)