5月2日、昼頃に伴侶が怒った顔で話してきました。「函館の局番で携帯に着信があったので折り返したら女の人が出たのよ。そしたら、間違い電話じゃないのかと言って、電話番号は何番か聞いてきたの。今、携帯で話しているから分からないと言うと、"分からないのね。私はホンダと言うけど"と言って電話を切られたのよ。頭にきちゃう」。伴侶が怒るのも無理ないですが、私はヒントを与えるための間違い電話だったと直感しました。ヒントは、最後に女性が伝えた"ホンダ"でした。
"ホンダ"に身に覚えが何かあるかを伴侶に聞くと「昔乗っていた車がホンダだった」と言いました。私も間違い電話の女性が伝えた"ホンダ"は、自動車メーカーの「本田技研工業(Honda・ホンダ)」のことだと思いました。私自身もホンダに縁がありました。大学時代に東京都新宿区西落合のホンダの創業者・本田宗一郎の豪邸の向かい側のアパートに下宿していた。また、調べていた知床遊覧船事故の犠牲者とされる人の葬儀のニュース映像にも、趣味のバイクが3台並べられていた。
その中に、ホンダのバイクもありました。女性の間違い電話は、ホンダのワークを促すためのヒントだと感じて、本田技研工業についての調査とワークを進めることにしました。ホンダの創業者・本田宗一郎に関しては、ヤマハの調査の中で、プロペラ製造に関係していたことが分かっていました。《飛行機の隠された秘密を解明するヒントとなるヤマハの前身・日本楽器製造株式会社のプロペラ》にヤマハの前身・日本楽器製造株式会社のプロペラについて書いています。
ヤマハ公式サイトの「やまももの木は知っている
ヤマハ発動機創立時代のうらばなし」には、『終戦直前、本田宗一郎さんが考案された外筒のねじ面仕上げのラップ盤も、発想がユニークで期待されたが、これまた終戦で実現することはなかった。本田さんは当時浜松市でピストンリングの製造をする会社を経営されていたが、川上嘉市社長の要請により、専用機械の設計を援助していただいたものであって、この機械以外にプロペラ翼のモデリングマシンを設計されたが、この機械は完成間近で戦災により焼失してしまった』と記されています。
「本田さんは当時浜松市でピストンリングの製造をする会社を経営されていた」というのは、アート金属工業のwikiにある『1928年(昭和3年)にはのれん分けの形で静岡県浜松市に「アート商会浜松支店」を設立し独立した』ことでした。過去のワークの経験から、シリンダやピストンリングを含む精密部品・機械の製造会社は、裏の松利権に関係していることが分かっています。本田宗一郎は、日本が誇る"職人の英雄"や"偉大な技術者"のように言われますが、隠された闇があると感じます。
一般的に、歴史上の英雄や偉人と呼ばれる人物ほど、大きな闇の役割を担っており、その真実が隠されてきたと見ています。本田宗一郎のwikiには、『本田宗一郎(1906年-1991年)は、日本の実業家、技術者。輸送用機器メーカー本田技研工業(通称:ホンダ)の創業者。1906年(明治39年)-11月17日、静岡県磐田郡光明村(現・浜松市天竜区)で鍛冶屋をしていた本田儀平と妻・みかの長男として生まれる。1919年(大正8年)-二俣町立二俣尋常高等小学校(現・浜松市立二俣小学校)入学。
1922年(大正11年)-高等小学校卒業、東京市本郷区湯島(現・東京都文京区湯島)の自動車修理工場「アート商会」(現在のアート金属工業)に入社。半年間は、社長の子供の子守りばかりであった。1928年(昭和3年)-アート商会に6年勤務後、のれん分けのかたちで浜松市に支店を設立して独立。宗一郎ただ1人だけが社長の榊原郁三からのれん分けを許された。1939年(昭和14年)-アート商会浜松支店を従業員の川島末男に譲渡し、東海精機重工業の経営に専念する。
1942年(昭和17年)-豊田自動織機が東海精機重工業に出資、自らは専務に退く。1945年(昭和20年)-三河地震により東海精機重工業浜松工場が倒壊。所有していた東海精機重工業の全株を豊田自動織機に売却して退社、「人間休業」と称して1年間の休養に入る。1946年(昭和21年)-10月、浜松市に本田技術研究所(旧)設立。39歳の宗一郎は所長に就任。1948年(昭和23年)-本田技研工業株式会社を浜松に設立。同社代表取締役就任。資本金100万、従業員20人でスタート。
原動機付き自転車を考案して二輪車の研究を始める。1949年(昭和24年)-のちにホンダの副社長となる藤沢武夫と出会い、共にホンダを世界的な大企業に育て上げる』と記載されています。wikiには、本田宗一郎が多くの褒章を授与されたことも記載されています。『上智大学名誉工学博士(1973年) ミシガン工科大学名誉工学博士(1974年) 勲一等瑞宝章(1981年) レジオンドヌール勲章オフィシエ章(1984年) スウェーデン王国北極星勲章(1986年) 国際連合環境計画グローバル500賞(1987年)
米国自動車殿堂入り(1989年) 国際自動車連盟ゴールデンメダル賞(1990) 正三位勲一等旭日大綬章(1991年) 米国二輪自動車工業会特別賞(1991年) ジェイムズ・ワット国際メダル(1991年)天竜市名誉市民第1号』。褒章を数多く授与された人物は、支配層の松利権に大きく貢献した人物であると捉えています。本田宗一郎の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「DS」と伝えられました。アート金属工業株式会社のwikiには、『アート金属工業株式会社は、長野県上田市に本社を置く、自動車などのエンジン用ピストンを開発・製造する企業である。
アイシンの連結子会社で、アイシングループ主要13社の一つ。ピストン専業メーカーであり、取引先は国内の主要自動車メーカーに加え海外の自動車メーカーにも及ぶ。2017年にアイシン精機(現:アイシン)の傘下に入った後は、アイシンのピストン事業が集約され、一手に担う事になった。2016年の時点で、自動車用ピストンの世界シェアは3位である。1917年(大正6年)-榊原郁三が東京市本郷区湯島(現在の東京都文京区湯島)に自動車整備工場「アート商会」として創業』とあります。
wikiの経歴から本田宗一郎は、トヨタグループの源流である豊田自動織機と接点があったと分かります。現在のアート金属工業は、アイシングループ主要13社の一つです。アイシンは自動車部品メーカーであり、トヨタ自動車(24.8%)、豊田自動織機(7.68%)が大株主になっています。すなわち、アート金属工業は、トヨタグループ傘下の企業と言えます。アート商会の創業者・榊原郁三の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「イルミナティ企業。人身売買」と伝えられました。
イルミナティは、闇の仕事をする人間に変身したトカゲ・レプタリアンの集団です。アート金属工業の代表取締役社長・三城伸五(アイシン精機出身)と本社所在地(長野県上田市常磐城)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「日本DS」「松工場」と伝えられました。《ワークでロスチャイルド工作員を暗示されたトヨタグループの創業者・豊田佐吉》からトヨタグループの創業者・豊田佐吉は、ロスチャイルドの工作員の役割と分かりました。自動車産業も裏の松利権網の重要な構成要員だと感じます。(つづく)