日本の渚百選_元猿海岸


大分県知事・広瀬勝貞がキヤノン財団の評議員に就任していることをウィキペディアで知り、「キヤノン」を追っていくことにしました。キヤノンは、個人的に会社員時代の昔に幾つかの拠点に足を運んだことがあり、縁が深い会社でもありました。キヤノンというとカメラです。《工作の闇のドラコニアンが内在する猫とカメラで仕事をする「世界ネコ歩き」の動物写真家・岩合光昭》にありますが、カメラは真実を隠すための工作のツールとして生み出されたものだと感じています。

 

キヤノン-Wikipediaによると、『キヤノン株式会社は、カメラ、ビデオをはじめとする映像機器、プリンタ、複写機をはじめとする事務機器、デジタルマルチメディア機器や半導体・ディスプレイ製造装置(露光装置、蒸着装置)などを製造する日本の大手精密機器メーカーである。1937年設立のOA機器の総合メーカーである。米州、欧州など海外売上高比率がきわめて高い。1612月に医療用機器を手がける東芝メディカルシステムズ(TMSC)を子会社化した。1949年の上場以来、年間での赤字は一度もない。

 

キヤノンの前身は、1933(昭和8)1112日頃に、内田三郎・吉田五郎(吉田は翌年の9月末までに退所)によって創立された精機光学研究所。観音菩薩の慈悲にあやかりたいという気持ちから、1934(昭和9)に完成した日本産初の精密小型カメラの試作機を「KWANON(カンノン)、そのレンズを「KASYAPA(カシャパ)と命名した。KASYAPAは、釈迦の弟子のひとりである大迦葉(マハーカーシャパ)に由来している。1935(昭和10)、世界で通用するカメラのブランド名として、Canon(キヤノン)が採用された。

 

「正典」「規範」「標準」という意味を持ち、正確を基本とする精密工業の商標にふさわしいことと、KWANONに発音が似ていることが、この名称を採用した理由とされている』と記されています。「キヤノン」の社名が観音菩薩の「KWANON(カンノン)に由来していることは、初めて知りました。《純粋な闇の八咫烏として聖徳太子を創造し観音信仰を広めた過去世》に書きましたが、観音信仰は、裏の松取り(松果体収穫)を広げる八咫烏の純粋な闇の仕組だと分かっていました。

 

これまでのワークから、日本を含めた世界の大企業は、表のサービス・商品の提供によるビジネスと並行して、裏の松利権網の金儲けを行っていると捉えています。大企業のキヤノンもまた、裏の松利権に関わる地下経済の恩恵を受けていると感じます。キヤノンの前身・精機光学研究所の創業者の1人が吉田五郎(技術担当)で、もう1人が内田三郎(資金調達担当)です。wikiには、『吉田五郎は、広島県福山市出身の技術者で、キヤノンのルーツである精機光学研究所の創業者の一人。

 

小学生からカメラを分解し組み立てるというカメラ少年で、これが病みつきになり福山中学(現・福山誠之館高校)を学業半ばにして上京。機械知識を生かして光学精密機械の輸入商社に出入りしたのが切っ掛けで映画の世界に入り、映写機関係の仕事に身を託した。吉田の狙いはライカとコンタックスであったが、世界に冠たるドイツの精密機械を向うに回し、当時の発展途上の技術でそれに立ち向かうのは蟷螂の斧に等しかった。吉田は工面して入手したカメラをばらし、中身の研究から始めたが、このような高級カメラをつくるためには、多額の資金が必要となる。

 

吉田が創業の相手に選んだのが当時、山一證券の外務員として株式で巨額の収益をあげていた義弟の内田三郎であった。内田はカメラなどにはまったく興味がなかったが、証券の売買関係で知遇を得ていた鮎川義介の「資源の少ない我邦では、光学精密機械とか純度の高い化学工業が有望である」という事業観に影響され吉田の申し出を承諾した。こうして1933年、世界一の高級カメラ作りに情熱を燃やし、内田と共に東京・六本木の木造アパートの三階を借りて「精機光学研究所」を創立。

 

創業は二人のみによるもので研究所の命名者は吉田、内田の知人・御手洗毅からも運営資金の一部を支援された』と記載されています。キヤノンのルーツである精機光学研究所の創業者の吉田五郎(1900-1993年)と内田三郎(1899-1982)の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「プレアデス」「アークのタコの宇宙人」と伝えられました。キヤノンの創業者・初代社長が御手洗毅(みたらいたけし)です。wikiには、『御手洗毅(1901-1984)は日本の実業家、医師。

 

キヤノン創業者・初代社長。太平洋戦争以前は産婦人科医として御手洗産婦人科病院を開業。甥はキヤノン社長や日本経済団体連合会会長を務めた御手洗冨士夫。1901年、大分県南海部郡蒲江町(現・佐伯市)に生まれる。実家は代々医師の旧家。佐伯中学を経て北海道大学予科に進学、恵迪寮の委員長をつとめる。1928年、北海道大学医学部卒業。上京して日本赤十字病院に勤務。731部隊の石井四郎と師を同じくする。193311月、吉田五郎や内田三郎らの創設した精機光学研究所に共同経営者として参画。

 

内田とは、産婦人科医として内田夫人の出産を通じて親交が始まる。内田がシンガポールに赴任するなどしたため、1942年、御手洗自身が社長に就く。太平洋戦争による空襲で御手洗の経営していた産婦人科病院は焼失し、戦争終了後はキヤノン経営に注力した。医師であった事から医療用機器の開発を推進し、その後現在も続く開発・製造の原点となった』とあります。御手洗毅は、産婦人科医であり、日本赤十字病院に勤務していたことから、松利権に関与していたことが窺えます。

 

また、《産婦人科医・御手洗毅氏の業績》から「731部隊の石井四郎と師を同じくする」の「師」とは、京都帝国大学医学部教授の清野謙次と分かります。《北大人骨事件が暗示する731部隊の人体実験》にありますが、清野謙次は、アイヌの人たちの人体実験・松取りと人骨収集を行っていたと見ています。キヤノンの創業者・初代社長の御手洗毅の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「松喰い」と伝えられました。やはり、重要な松工作員だったと感じます。

 

キヤノンの現トップは、代表取締役会長兼社長兼CEO御手洗冨士夫(1935-)です。6代・8代に続き、3度目の現在、10代社長に就任しています。御手洗冨士夫は、安倍晋三ラインだと見ています。NEWSポストセブンの記事「安倍首相お友達人脈格付け」には、経団連会長の時、安倍晋三・元首相とゴルフや別荘会食で懇意の関係であることが書かれています。御手洗冨士夫には、過去のワークで幾度か光を降ろしており、安倍晋三と同様、米国・朝鮮半島系の闇の役割と見ています。

 

日本DS・八咫烏の最上級工作員とも言えます。キヤノンの創業者・御手洗毅と甥で現社長・御手洗冨士夫は、大分県佐伯市の生まれです。御手洗氏は、大分の地で松利権を支配していた佐伯氏(豊後国)の分家なのです。大分県知事・広瀬勝貞がキヤノン財団の評議員に就いている理由がここにあります。北海道当別町に赤ちゃんポストと大分と繋がったのは、大きな力を持つ松利権集団が背後にあったからです。大分の地の裏にある松利権網の闇の仕組が終わることを願っています。(おわり)