
キヤノン財団の評議員に就任している大分県知事・広瀬勝貞から「キヤノン」のワーク《731部隊の石井四郎と師を同じくし産婦人科医で日赤病院勤務だったキヤノンの創業者・御手洗毅》に繋がっていましたが、キヤノンの歴史の中で気になる人物がいました。陸軍大尉の山口市太郎です。キヤノンのwikiには、『内田は知人で第一師団麻布歩兵第一連隊中隊長だった山口一太郎大尉を連れてきて、山口は輸入物で軍用航空写真機用ゴム引き布幕を1反ほど持ってきた。
この布幕について小倉磐夫は小西六から持ってきたと推定している。・・内田は山口の指導を受け、手作りによる試行錯誤の手法から脱し、設計図に従って試作し改良する手法へと転換した』と記されていました。軍人がキヤノンのカメラ開発の援助をしていたことは、何か裏があると感じました。山口一太郎のwikiには、『山口一太郎(1900年-1961年)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍歩兵大尉。1921年(大正10年)7月-陸軍士官学校卒業。1926年(大正15年)-陸軍砲工学校員外学生として、東京帝国大学理学部物理学科に派遣。
専門は光学兵器。1929年(昭和4年)-小西六本店にてフェアチャイルド式自動航空写真機の国産化に成功。1935年(昭和10年)8月1日-歩兵第1聯隊第7中隊長。1934年-1935年(昭和9-10年)頃-精機光学研究所(現・キヤノン)にて個人的に指導。録音科学研究所の円盤録音機開発に協力。この録音機は二・二六事件でも関係者の電話の傍受録音に使われることとなる。1936年(昭和11年)-二・二六事件で無期禁固。蜂起には加わらなかったものの、週番司令としての権限を悪用して反乱軍に実弾を供給して有罪となった。
獄中でもストーブのある部屋で兵器開発を許された。1941年(昭和16年)-仮釈放。萱場製作所(現・KYB)に技術部長として就職。1949年(昭和24年)-宇垣軍縮を批判』と記載されています。山口一太郎は、二・二六事件で利用された録音機の開発にも協力し、二・二六事件で無期禁固の有罪を受けながらもストーブのある獄中の部屋で兵器開発を許されたことから、工作員だったと見ています。山口一太郎の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「何か気持ち悪い」と伝えられました。
私は目の痒みを覚えたので、オーディン系の魔力を持っていた術師だったと感じました。反乱軍に実弾を供給していたことから首謀者の青年将校たちをバックアップしながら実際は裏切る工作を成した黒幕の可能性も感じます。工作員の軍人・山口一太郎が関与した二・二六事件を追う必要がありました。wikiによると、『二・二六事件とは、1936年(昭和11年)2月26日から2月29日にかけて発生した、日本のクーデター未遂事件。皇道派の影響を受けた陸軍青年将校らが1,483名の下士官・兵を率いて蜂起し、政府要人を襲撃するとともに永田町や霞ヶ関などの一帯を占拠した。
しかし、最終的に青年将校達は下士官兵を原隊に帰還させ、自決した一部を除いて投降したことで収束した。この事件の結果、岡田内閣が総辞職し、後継の廣田内閣が思想犯保護観察法を成立させた』と記されています。二・二六事件の背景には、「皇道派と統制派という陸軍高級幹部の派閥争い」があったとされます。また、『皇道派は天皇を中心とする日本文化を重んじ、物質より精神を重視、無論、反共産党主義であり、ソビエト連邦を攻撃する必要性を主張していた(北進論)。
統制派は、当時のドイツ参謀本部の思想、ならびに第一次世界大戦からの影響が濃く、中央集権化した経済・軍事計画(総力戦理論)、技術の近代化・機械化を重視、中国への拡大を支持していた(南進論)』とあります。皇道派は米国の闇の勢力で、統制派は欧州の闇の勢力と捉えられます。wikiの「事件後の処理」の項目には、『陸軍の統制派は二・二六事件の決起がもたらした状況を最大限に利用した。政治の面では、岡田内閣の後継内閣の組閣過程に干渉し、軍部独裁政治を実現しようとした。
そして、陸軍内部では二・二六事件後の粛軍人事として皇道派を排除し、陸軍内部の主導権も固めた。青年将校たちは統制派と対立していたが、青年将校たちが起こした2.26事件は、皮肉にも統制派を利する結末となった。そしてこれが、日本の軍部ファッショ化の本格的なスタートでもあった』とあります。二・二六事件によって日本軍は強固な組織統制を敷き、強烈な支配体制を構築していきました。二・二六事件の目的が、軍の青年将校や世の中の若者を封じて、日本全体を裏の松取り工作全盛の軍国主義・ファシズム体制にすることだったと推察します。
二・二六事件の反乱軍である皇道派の青年将校たちを決起させるよう誘導した人物が皇道派の重鎮でリーダーの陸軍大将・荒木貞夫です。荒木貞夫(1877-1937年)の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「エリート工作員。金」と伝えられました。やはり金で動いていた現場の黒幕だったと感じます。二・二六事件の犠牲者(死亡者)は、松尾伝蔵・内閣総理大臣秘書官事務取扱(私設秘書)、高橋是清・大蔵大臣、斎藤実・内大臣、渡辺錠太郎・教育総監の4人です。
二・二六事件の犯人は、野中四郎、村中孝次、磯部浅一、安藤輝三、栗原安秀、香田清貞、北一輝、西田税、林八郎、池田俊彦他とされます。首謀者の中で2人が自決しました。裁判では、18人が死刑、23人が禁固刑に処せられました。犯人の中で個別のワーク対象に選んだ野中四郎(1903-1936年:二・二六事件の中心人物・自決)、西田税(にしだみつぎ・1901-1937年:二・二六事件の首謀者の一人・刑死)の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「死んでいる。口封じされた」「口封じされた」と伝えられました。
ネットで二・二六事件について調べている時から足が異常に冷たくなり、亡くなった人たちの魂が来ていると感じました。二・二六事件の慰霊の場所に光を降ろす必要性を感じて場所を調べると《東京とりっぷ》を見つけました。「二・二六事件の犠牲者、処刑された青年将校らを弔う観音像」の記事があり、『二・二六事件慰霊碑は、昭和11年7月12日に東京陸軍刑務所敷地(現・東京都渋谷区宇田川町)で行なわれた銃殺のあった地に立っています』と記されていました。
慰霊の像が「観音像」であることは、二・二六事件の犠牲者や処刑者の松取り(松果体収穫)が行われたことを示唆します。過去のセッションから、観音信仰は、裏の松取り工作のための信仰だと分かっていました。二・二六事件慰霊碑のある東京陸軍刑務所跡(現在の渋谷税務署などの入る渋谷地方合同庁舎の建つ一角の観音像)に留まっている御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「OKです」と伝えられました。二・二六事件の隠された真実が明らかになることを願っています。