コバルト60の照射ジャガイモを生産する北海道JA士幌町が提携している民間企業のもう1社が「味の素」です。味の素については、約2年前に《食品添加物の認可種類数が示唆する日本の大きな闇の封印》のワークで、味の素の関係者に光を降ろしていましたが、再度、調査とワークを行うことにしました。味の素-Wikipediaには、『味の素株式会社は、日本の食品企業。「味の素」は、同社が製造販売するL-グルタミン酸ナトリウムを主成分とするうま味調味料で、同社の登録商標。
味の素は食品会社として広く認知されており、日本国内だけでなく世界各地にグループ企業や工場を持つ。化粧品ブランド「Jino」などアミノ酸生産技術を活用したケミカル事業、医薬事業も行っている。1907年(明治40年)-鈴木三郎助が合資会社鈴木製薬所を設立。1908年(明治41年)-池田菊苗がグルタミン酸ナトリウムの製造法特許取得。1912年-合資会社鈴木商店に社名変更。1914年(大正3年)9月-川崎工場開設。1917年(大正6年)6月17日-株式会社鈴木商店を設立(創立の日)。
7月-ニューヨーク事務所開設、日本国外進出。1946年(昭和21年)2月-味の素株式会社に社名変更』と記されています。味の素の創業者は、二代目鈴木三郎助です。wikiには、『2代鈴木三郎助(1868年-1931年)は、日本の実業家、味の素の創設者。神奈川県出身。1868年1月21日、相模国三浦郡堀内村(現在の神奈川県三浦郡葉山町)の商家、父・三郎助(初代)、母・なか、の長男として生まれる。幼名を泰助といい、妹・こう、弟・忠治がいる。
初代三郎助はもともと忠七といい、公郷村(現・横須賀市)の豪商「滝の崎」に奉公に出て手腕を認められ、慶応2年(1866年)に妻帯・独立して「滝屋」を称していた』とあります。創業者の2代鈴木三郎助は、ヨード製造・味の素製造の他に電気化学・水力発電事業にも携わりました。『塩素酸カリウムは塩化カリウムを電気分解して得られるが、安定事業化の為には潤沢な電力を安価に利用できなければいけなかった。そこで大正6年(1917年)、千曲川流域の水利権を押さえていた高橋保らとともに東信電気株式会社を設立し社長に就任、水力発電事業に乗り出す。
しかしこの計画は地元の有力者黒沢睦之助の協力が得られず難航した。折しも房総でヨード事業を営みかねてから縁のあった森矗昶が、第一次世界大戦後の市価暴落によって経営破綻した総房水産株式会社の救済合併を懇願してきた。これを受け入れて森を信州の発電事業に配したところ、わずか1年で4つの発電所を完成させるという怪手腕を発揮した』と記されています。これまでのワークから電気・発電関係の裏には松利権の闇があると分かっていたので、2代鈴木三郎助は松利権網に関係していたと見ています。
創業者の2代鈴木三郎助の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「DS」と伝えられました。味の素の源流となる「グルタミン酸ナトリウム」を発見したのは、池田菊苗です。wikiには、『池田菊苗(1864年-1936年)は、戦前日本の化学者。学位は、理学博士(1902年)。東京帝国大学理学部化学科教授。「日本の十大発明」の一つといわれるうま味成分、L-グルタミン酸ナトリウムの発見者として知られる。現在、世界中で広く普及しているうま味調味料の発見者で、その成分はL-グルタミン酸ナトリウムであることを解明した。
1864年、薩摩藩士池田春苗の次男として京都で出生する。京都府中学、大学予備門を経て、1880年から大阪衛生試験所で化学を学ぶ。幼少期より昆布のだしに関心を持ち、湯豆腐のだし汁昆布の研究に着手。妻である貞を夜、昆布を乾物屋に買いに走らせ1907年に約38 kgの昆布(約12kgの乾燥昆布)から煮汁をとり、うま味の素であるL-グルタミン酸ナトリウム約30 gを得ることに成功』とあります。池田菊苗の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「闇の叡智を降ろした。日本人の味覚をダメにした」と伝えられました。
創業者の2代鈴木三郎助、グルタミン酸ナトリウムを発見者の池田菊苗は、いずれも日本人を封じる闇の役割を担っていました。創業者の2代鈴木三郎助の他に、「鈴木」姓の松利権の闇の役割の人物として、双日などの前身となる「鈴木商店(神戸市)」の創業者・初代鈴木岩治郎、「鈴与(旧清水市)」の創業者・六代目鈴木與平がいます。支配層の暗黒集団の工作員3人が偶然に「鈴木」姓だとは思えません。「鈴木氏」を調べると《烏紋(からすもん)》がヒットしました。熊野神社の神官・鈴木氏一族に関係していました。
『古代中国では太陽の化身として崇められた、
日本では熊野神社の神使であり神官鈴木一族の代表紋。烏は神話に出てくる鳥で、古代中国では太陽の中に三本足の烏が住むと考えられていた。日本神話では東征を行った神武天皇が熊野から大和に入るときに、大和の八咫烏が道案内をしたことが記され八咫烏は三本足の烏であったという。神皇産霊(カミムスビ)尊の曾孫という賀茂建角身命の化身で、賀茂御祖神社(下鴨神社)の祭神で鴨県主の祖ともいわれている』と記されています。
烏紋は、「三壁六甲」の家紋など「八咫烏」を示唆する紋章です。また、鈴木氏-Wikipediaには「雑賀党(衆)鈴木氏」について、『雑賀党の鈴木氏が本格的に歴史にあらわれるのは、「雑賀孫市」の通称で知られる鈴木孫一が活躍した16世紀の中頃以降で、雑賀衆のほかの土豪たちと同様、鉄砲伝来から間もない早い時期に鉄砲を使った戦術を取り入れ、16世紀の半ばには鉄砲で武装した、ある程度の規模の傭兵的集団として活動していたようである』とあります。雑賀衆は鉄砲隊です。
鉄砲隊の必需品は「黒色火薬」です。黒色火薬の成分は、硝酸カリウム(硝石・塩硝)ですが、実は、人肉の塩漬けの保存料として用いられていたのです。雑賀衆が石山寺戦争で織田信長の軍と戦ったのは、松取り(食人)工作のためでした。《新しい人生という光を道を歩む転機となる闇の経験》には、富山県の五箇山の隠れ里について書いています。五箇山は、加賀藩の流刑地で、塩硝(硝酸カリウム)の産地とする後南朝の拠点でした。黒色火薬の原料と見せかけて、人肉の塩漬けをつくっていた八咫烏集団の工作の根城だったのです。
鈴木氏は、人肉の塩漬けという食人を含めた八咫烏の松取り工作員であることが分かります。味の素の代表執行役社長/最高経営責任者・藤江太郎、本社所在地(東京都中央区京橋 味の素本社ビル)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「DS。もういないかも」「OKです」と伝えられました。北海道JA士幌町の十勝の地には広大な闇の地下施設があり、提携するカルビーと味の素は、食人の闇につながる松利権網の役割と捉えられます。隠された松利権網の闇が終わることを願っています。(おわり)