NPO法人「場の研究所」の所長・清水博が薬学部教授を務めていた東京大学を退官して、教授の職に就いた「金沢工業大学」が気になりました。Wikipediaには、『金沢工業大学は、石川県野々市市扇が丘7-1に本部を置く日本の私立大学である。1965年に設置された。1957年(昭和32年)の北陸電波学校の創設を起源とし、北陸電波高校開校を経て、1965年(昭和40年)に金沢工業大学(工学部機械工学科、電気工学科)が開学。1978年(昭和53年)に大学院工学研究科を開設。
2004年(平成16年)に環境・建築学部及び情報フロンティア学部を増設。大学院に心理科学研究科を増設。2008年(平成20年)にバイオ・化学部を開設。現在は4学部14学科2研究科の理系複合大学となっている。「教育付加価値日本一の大学」を目指し、入学時と比べた卒業時の力の成長を重要視していることから、学生がこなさなければならない課題が多い大学である。また、その成果が評価され、地方にありながらも常に高い就職率を維持している。
1957年6月1日:北陸電波学校(金沢市小坂町、元北陸電気通信局の木炭貯蔵倉庫を改築)として設立認可、発足。通信科、テレビ科、通信別科設置。理事長兼校長に学園創設者である嵯峨保二就任』と記されています。金沢工業大学の創設者は嵯峨保二です。コトバンクには、『嵯峨保二
サガ ヤスジ 大正・昭和期の新聞・放送経営者 生年明治31(1898)年10月18日
没年昭和34(1959)年11月18日 出生地石川県 学歴〔年〕慶応義塾大学〔大正9年〕中退 経歴 大本に入信して大学を中退。
大正10年北国新聞社に入社、東京支社に勤めたが、養父の遺志で金沢に戻った。昭和12年常務、18年社長に就任。戦時新聞統合を自ら実現。21年富山新聞を発行、26年北陸放送を創設した。大本信仰の感化で宗教、教育面に活躍、また美術工芸の振興、原水禁、世界連邦などの平和運動に貢献した』とあります。金沢工業大学の創設者・嵯峨保二は、松利権工作に関係する神道系新宗教「大本」の信者でした。嵯峨保二の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「工作員」と伝えられました。
金沢工業大学の理事長・泉屋吉郎、学長・大澤敏、本部所在地(石川県野々市市扇が丘)に闇の解除・統合を意図して各々に光を降ろすと「底辺」「現場」「OKです」と伝えられました。グーグルマップを見ると金沢工業大学の本キャンパスの東約600mに金沢赤十字病院がありました。金沢赤十字病院のwikiには、「1969年(昭和43年)10月 現在の地に新築移転する」と記されています。一方、金沢工業大学は、wikiに『1962年4月1日 金沢工業高等専門学校(電気工学科)が野々市校舎にて開校』と記されています。
金沢工業大学の扇が丘キャンパスでの開校と金沢赤十字病院の現在地(金沢市三馬)への移転が連動しているように見えます。旧加賀藩の石川県は松システムの中心拠点であり、松工作の現場作業員の養成の可能性を感じます。次に、真行寺君枝がCM出演した化粧品会社「資生堂」に移ります。ウィキペディアには、『株式会社資生堂は、化粧品の製造・販売を主な事業とする日本の企業である。化粧品の国内シェア第1位であり、世界シェアでは第5位となっている。
日経平均株価およびTOPIX Large70の構成銘柄の一つ。世界の約120カ国・地域で事業展開しており、海外売上比率は6割を超える。1872年(明治5年)9月17日、福原有信が東京・銀座に「資生堂薬局」創業。商号の由来は、中国の古典「易経」の一節「至哉坤元
萬物資生(至れるかな、坤元。万物資(と)りて生ず。)」から。「資生」は中国清代の文献に良く見られ、近代の中国や日本で「economy」の訳語として用いられた時期もあった。「新しく深みのある価値を発見し、美しい生活文化を創造する」という企業理念のもとにしている。
化粧品事業を中心に、トイレタリー事業やヘルスケア事業(美容・健康食品や一般用医薬品)、フロンティアサイエンス事業(医療用医薬品や美容医療、クロマトグラフィー、原材料事業)などを展開している』と記載されています。資生堂の創業者は、福原有信(ふくはらありのぶ)です。wikiには、『福原有信(1848年-1924年)は、第3代日本薬剤師会会長であり、1872年に資生堂の前身である調剤薬局を銀座に開き、1897年には化粧品を発売した、資生堂の創業者である。
安房国松岡村(現・千葉県館山市)の郷士の家に、平民である福原市左衛門の次男として生まれる。1865年、18歳で幕府医学所に入って西洋薬学を学び、現代で言う薬剤師として2年後の1867年から同所で雇われる。1868年7月に東京大学病院雇、1869年に大学東校(現在の東京大学医学部)中司薬(職員)となり、1871年海軍病院薬局長となる。その翌年の1872年、23歳の時には、官を辞して、民間初の洋風調剤薬局となる資生堂を銀座に開業。当時の日本にはなかった医薬分業を唱えた。
1888年には日本初の練り歯磨き「福原衛生歯磨石鹸」を、1897年には化粧水「オイデルミン」を発売。1917年には化粧品部を独立させて、今日の資生堂の基礎を築いた』とあります。資生堂の創業者・福原有信は、海軍病院薬局長、日本薬剤師会会長でした。資生堂の創業者・福原有信と初代社長・福原信三(1883年-1948年:福原有信の三男)の御魂が上がるよう意図して各々に光を降ろすと「叡智を使って人々を洗脳して金を取っていた」「ボンボン」と伝えられました。
福原有信は、闇の叡智を受取り活用して暗闇にする役割を担っていたと感じます。資生堂の代表取締役社長兼CEOは、魚谷雅彦です。wikiによると、『魚谷雅彦(うおたにまさひこ:1954年-)は、奈良県出身の実業家。株式会社資生堂代表取締役執行役員社長。株式会社ブランドヴィジョンエグゼクティブアドバイザー。日本における代表的な「プロ経営者」の一人。同志社大学文学部卒業後、海外への留学制度があるという理由で、ライオン歯磨(現:ライオン)に入社、その後クラフト・ジャパン(現:モンデリーズ・ジャパン)副社長に就任。
1994年、 日本コカ・コーラに転じ、「ジョージア」や「爽健美茶」、「紅茶花伝」など数々のヒット商品を手掛け同社の業績を伸張させた。またその後には、自身でコンサルタント会社を立ち上げNTTドコモのサービス改善にも携わった。それらの実績を買われ、 2013年4月には資生堂マーケティング統括顧問に就任。社内では顧問として助言をもらうだけとされていたが、役員経験のない外部の人材が社長に就任することに対し否定的であった「役員指名諮問委員会」も最終的には全員一致で賛成し、2014年4月1日、同社として史上初めて外部出身者として社長に就任した』と記されています。
魚谷雅彦は、資生堂が外部から招聘したコカ・コーラやNTTドコムの経営実績を持つ人材でした。資生堂の代表取締役社長兼CEO・魚谷雅彦と本社所在地(東京都港区東新橋 汐留タワー)に闇の解除・統合を意図して各々に光を降ろすと「DS」「ビルにトカゲがいっぱいいる」と伝えられました。闇の時代、魂を持つ人たちが深い闇を経験するために闇の役割を担う人、宇宙人、企業などが必要でした。しかし、今は闇の時代が終わる時に来ています。闇の役割が終わり、全てが本来の光の姿に戻ることを願っています。(おわり)