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ステーキチェーン「いきなり!ステーキ」を運営するペッパーフードサービスの社長を辞任した創業者・一瀬邦夫について調べました。wikiには、『一瀬邦夫(1942-)は、静岡県出身の実業家、料理人、YouTuber。株式会社ペッパーフードサービスの創業者で元代表取締役社長。幼少期から東京都墨田区に移り住み、日出学園高等学校卒業後、赤坂にあった旧山王ホテルに就職。コックとして修行を積んだ後、1970年に独立し、「キッチンくに」を開業。1985年に有限会社くにを設立し、4つの直営店の店舗展開に乗り出す。

 

1994年に低価格ステーキハウス「ペッパーランチ」を展開し始め、1995年に株式会社ペッパーフードサービスに改称。2006年には、当時では史上最年長の64歳にして東証マザーズへの株式上場を果たす。2013年には立食形式の低価格ステーキハウスの「いきなり!ステーキ」を展開する。20222月にはYouTubeチャンネル「一瀬邦夫チャンネル」を開設した』と記されています。ここでは、一瀬邦夫が就職した「旧山王ホテル」が気になりました。ペッパーフードサービスのwikiには次の記載があります。

 

『株式会社ペッパーフードサービスは、いきなり!ステーキなどステーキを中心としたレストランチェーンを運営する外食産業企業。東京都墨田区に本社を構える。東京・赤坂の山王ホテルから独立した一瀬邦夫が、1970年に向島に開店した「キッチンくに」として創業。1985年には法人化して有限会社くにとなり、「ステーキくに」の店舗展開などを行う。1995年には会社を株式会社に組織変更して、現在の株式会社ペッパーフードサービスとなっている。現在、主力店舗の「いきなり!ステーキ」のほか、「炭焼ステーキ・くに」、「こだわりとんかつ・かつき亭」なども運営している。

 

「いきなり!ステーキ」は海外展開も行っており、韓国、台湾、シンガポール、中国、インドネシア、オーストラリア、タイ、フィリピン、マレーシアなどにも進出している。 以前は「ペッパーランチ」を直轄で運営していたが、ペッパーフードサービスが202061日に新設分割で設立した株式会社JPへ運営が移管され、同年831日付けで同社は株式会社ホットパレットへ社名変更するとともに、ペッパーフードサービス傘下から離脱した』とあります。「いきなり!ステーキ」はアジア圏に急拡大していました。

 

ペッパーフードサービスの創業者・一瀬邦夫、代表取締役社長CEO一瀬健作(1972-:一瀬邦夫の息子・前社長)、本社所在地(東京都墨田区太平4丁目1-3 オリナスタワー17F)に闇の解除・統合を意図して各々に光を降ろすと「何でもやる人。DS」「もう居ないと思う。晒される」「金がある。ノウハウがある。松。Qの手が入った」と伝えられました。松利権網の仕事をしていたから金があるのです。会社トップだった一瀬邦夫は、Qの手が入って闇の仕事を終わりにされ、辞任することになったようです。

 

グーグルマップで観るとペッパーフードサービス本社は、東京都墨田区立錦糸公園に隣接する北川にあります。《大日本帝国陸軍の隠されたの闇の缶詰工場と感じる「糧秣廠」》にありますが、錦糸公園には、陸軍糧秣廠があり、隠された松取り・食人の闇が置かれた場所だと見ています。《近代史跡・戦跡紀行~慰霊巡拝》には、錦糸公園の置かれた経緯や関東大震災・大日本帝国陸軍の糧秣廠について記されています。『錦糸町駅前の「錦糸公園」は、かつて陸軍の倉庫であり、空襲犠牲者の仮埋葬地であった。

 

墨田区立錦糸公園は、大正12(1923)に発生した関東大震災で壊滅的な被害を受けた東京復興事業の一環として、隅田公園・浜町公園と並んで計画された公園であった。当地は、帝国陸軍の糧秣廠本所倉庫であったが、大正14年に出張所として流山に倉庫が設けられて移転し、公園として再整備が行われ、昭和3(1928)7月に開園。太平洋戦争中は、空襲からの避難所としての役割や戦災で命を落とした人たちの仮埋葬所としても利用された。1945310日の東京大空襲においては、12895の遺体が錦糸公園に仮埋葬された。

 

仮埋葬された遺体は戦後に掘り起こされて改装されている。現在、錦糸公園には仮埋葬などを物語る戦跡などは特に残っていない』。この行間から関東大震災は意図的に起こされたこと、糧秣廠本所倉庫が置かれたことから、犠牲者の遺体からの松取り・食人が絡む闇の缶詰工場が地下に作られた可能性を感じます。過去のワークから地上が公園となっている場所は松取りの闇の地下施設があると分かっています。現在も錦糸公園一帯には闇の地下施設があると推測します。一瀬邦夫が就職した「旧山王ホテル」がポイントだと感じます。

 

wikiには『山王ホテルは、かつて東京・赤坂に存在したホテルである。戦前においては、帝国ホテル、第一ホテルと並ぶ、東京を代表する近代的ホテルの一つであり、1936(昭和11)に発生した二・二六事件の舞台ともなった。戦後は連合国軍に接収され、その後も1983(昭和58)まで在日アメリカ軍の施設として存在した。1990年代前半に取り壊され、跡地は暫く更地だったが、2000年に山王パークタワーが竣工した』と記されています。経歴から一瀬邦夫は1960年に山王ホテルに就職したことになります。

 

その時の山王ホテルは在日アメリカ軍の施設でした。《戦後日本の松利権を支配してきた日米合同委員会と「Q」の配下の替え玉に移行した在日米軍トップ》には、在日米軍と日本の官僚が参加し実質的に日本を支配していた「日米合同委員会」が定期的にニュー山王ホテルで行われていたことが書いています。「日米合同委員会」は、実質的な日本の松利権の支配会議体です。それ故に、在日米軍の施設だった「山王ホテル」も米国主体の松利権の支配拠点と見ています。米軍は、DSの松利権網構築の主体です。

 

これらのことから、一瀬邦夫はDSの下で山王ホテルのコックの修行を積んで、ステーキチェーン「いきなり!ステーキ」や「ペッパーランチ」の店舗を展開していったと感じます。山王ホテルの創業者・初代支配人は、中谷保です。wikiには『中谷保(1885年生)は石川県片山津で農家(庄屋)の子として生まれる。石川県立金沢中学卒業後、19歳で語学研究のため渡米、1907年に在米の貿易会社「伴新三郎商店」に入社し、新三郎の姪と結婚、1912年同支配人に就任、1918年に帰国し、安全自動車を創立。

 

日米製材所、中谷鉄工所の代表のほか、1932年には山王ホテルを創業した』とあります。中谷保は松システムの中心の「加賀(富山県・石川県)」出身でした。中谷保の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「DS」と伝えられました。中谷保が設立した安全自動車は、現在は自動車整備部品製造販売を主な業務とする会社ですが、創業から1983(昭和58)までは、クライスラー系のダッジとインペリアル、ドイツ/西ドイツのNSU各車の輸入総代理店として知られていました。自動車の輸出入の貿易は、松利権網の主要ルートの1つと見ています。

 

安全自動車の代表取締役社長・中谷宗平と本社所在地(東京都港区芝浦)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「武器」「いいです」と伝えられました。まだ、創業者からの闇の仕事を継続しているようです。20075月のペッパーランチ事件の背後には、DSの松利権網の構築があったと推測します。一瀬邦夫は、DSによる松利権網の現場仕事を担う反社を束ねる工作員だったと感じます。Qの手が入ってDSの松利権網が終わりになって来ています。ペッパーランチ事件の真実が明らかになることを願っています。(おわり)