「福祉の父」と呼ばれる「石井十次(いしいじゅうじ)」を調べていると《保育士試験で問われる日本人と、日本の児童福祉施設の歴史》に、日本初の孤児院である松方正義の「日田養育院」が記載されていました。日田養育院(養育館)と松方正義の関連も調査とワークを進めました。wikiには、『養育館は、当時の日田県が豊後国日田郡北豆田村に設置した、捨て子などの養育が必要な幼児を収容して保育するための施設である。あわせて孤児や貧窶児(ひんくじ)を収容したため、近代日本において最初の孤児院であるとされる。
日田県の初代知事として赴任した松方正義が、当時の日田県内で慣習的に行われていた堕胎の防止を医師や産婆などに促したが効果がなかったため、堕胎の禁止と罰則を告示し、及び捨て子などの収容施設の設置を構想した。明治2年(1869年)に設立され、古家を利用した仮施設から日田郡南豆田村島畑の新館舎に移った。施設費用は松方の私財が投じられ、館の養育掛長以下、産婆や医師など関係者は無報酬で活動した。設立から3年後までに、野合懐胎の保胎登録が366人、養育館の監督下においた家庭で育てたのが169人、収容された合わせて139人の孤児や捨て子が養育された。
明治3年(1870年)6月の貧窶児収容法の改正と日田県の大分県への合併、日田の経済悪化によって明治6年(1873年)に閉鎖された』と記されています。日田市は中央に三隈川(筑後川)が流れ、三方が山に囲まれた盆地で重要な光の場所です。江戸時代には、岡山県倉敷市と同様に、幕府直轄の天領になっており、光を封じる松取り(松果体収穫)が行われた場所であることが分かります。日田市は《夢から繋がった元経産省事務次官の大分県知事・広瀬勝貞と日本最大級の工作員養成所の私塾・咸宜園》で取上げた私塾・咸宜園(かんぎえん)があった地です。
咸宜園は、大分県知事・広瀬勝貞の先祖・広瀬淡窓(1782年-1856年)が江戸時代に設立した日本最大級の私塾ですが、実質的には、松取り工作員を養成していたと見ています。松方正義のwikiには、『松方正義(1835年-1924年)は、幕末から明治時代にかけての日本の政治家、財政家。明治期の日本において内閣総理大臣を2度務めるとともに大蔵卿、大蔵大臣を長期間務めて日本銀行を設立したり、金本位制を確立するなど、財政通として財政面で業績を残した。晩年は元老、内大臣として政局に関与し影響を行使した。独逸学協会名誉会員。日本赤十字社社長』とあります。
内閣総理大臣の地位に就いた松方正義は、アドレノクロムの闇に繋がる日本赤十字社の社長を務めていました。金儲けのための松取りの闇が引継がれてきた大分県日田の地で、松方正義は日田養育院を設立して、胎児や児童を犠牲にした松取りを行ってきたと推測できます。日田養育館があった日田養育館跡碑の住所は「大分県日田市三本松」であり、「3」と「松」というヒントを残しています。「3」は「八咫烏」で、「松」は「松取り」の証と言えます。松方正義も苗字に「松」がついており、人名や地名にも、同様に真実を知るためのヒントになります。
松方正義の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「悪魔崇拝者」と伝えられました。日田養育館跡碑にも光を降ろすと「いいです」と伝えられました。松方正義は、子供を生贄として悪魔に捧げる大きな闇の役割を担っていたと感じます。多くの魂が深い闇を経験するための環境づくりを成す役割だったと言えます。私たちは、魂が大きな輝く光になるために地球で深い闇を経験してきました。しかし、今はもう、地球での闇の経験は終わりです。積重ねてきた闇を統合して光に変えていく時が来ています。
石井十次は、留岡幸助(とめおかこうすけ)、アリス・ペティ・アダムス、山室軍平(やまむろぐんぺい)とともに「岡山四聖人」に称されています。「岡山四聖人」の他の3人である、留岡幸助、アリス・ペティ・アダムス、山室軍平について追っていきました。留岡幸助についてwikiには、『留岡 幸助(1864年-1934年)は、岡山県高梁市出身の社会福祉の先駆者で、感化院(のち教護院、現・児童自立支援施設)教育の実践家。児童養護施設東京家庭学校(東京都杉並区高井戸東)および児童自立支援施設北海道家庭学校(北海道紋別郡遠軽町留岡)の創始者として知られる。
1864年4月9日(元治元年3月4日)、吉田万吉、トメの子の6人兄妹の次男として備中国高梁(現・岡山県高梁市)に生まれた。生後まもなく、米屋を営んでいた留岡家の養子となったが、子供同士の喧嘩で武家の子供を怪我させ、商いに支障が出たことから、養父から厳しい折檻を受けて家出し、高梁にある日本組合基督教会のキリスト教会に逃げ込んだ。その伝で福西志計子の元に匿われ、さらに福西により岡山市にいた金森通倫の元に保護され、のち18歳で上代知新牧師より正式な洗礼を受けた。
徴兵検査で不合格となったのち、1885年(明治18年)に同志社英学校別科神学科邦語神学課程に入学し、新島襄の教えを受ける。1888年(明治21年)卒業後、福知山で教会牧師となった。1891年(明治24年)、北海道空知郡市来知(いちきしり)村の内務省北海道庁空知集治監の教誨師となった。1894年から1897年にかけてアメリカに留学した。マサチューセッツ州のコンコード感化監獄で実習を行ったのち、ニューヨーク州のエルマイラ感化監獄では長年にわたり監獄の改良事業に取り組んだ施設長のブロックウェーから直接指導を受けた』と記されています。
キリスト教徒の留岡幸助は、同志社大学の設立者・新島襄(にいじまじょう)と繋がっていました。《フリーメイソンのアメリカン・ボード宣教師の支援を受けキリスト教の裏の役割を成した新島襄》にありますが、新島襄はフリーメイソンであるアメリカン・ボード宣教師の援助を受けて日本の松利権網を構築してきました。留岡幸助の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「悪魔崇拝者」と伝えられました。やはり、留岡幸助は、社会に適合できない子供やはみ出した子供を対象に裏で松取りを行っていたと感じます。感化院や教護院は現在の児童自立支援施設のことです。
非行少年や保護者のいない少年を保護・教育して更生をはかる施設です。《松代大本営の一部建物が仏教会に譲渡され設立された戦災孤児収容施設》にありますが、戦争孤児が松取りの犠牲になってきました。戦争という工作は、子供の松取りを行う環境づくりでもあったのです。現実的には、親がいない子供や身寄りのない環境の子供が松取りの対象になります。いつの時代も、松取りの犠牲になる子供は、まずは、貧しくて弱い立場にある子供です。そうした環境の子供が純粋な光を持つからです。松果体収穫する側は、暗闇にするためにエゴで汚れた光よりも純粋な光を選ぶのです。(つづく)