円覚寺仏殿


佐竹音次郎が設立した鎌倉保育園の後身・鎌倉児童ホームの運営母体が「社会福祉法人 聖音会」です。公式サイトには、「社会福祉法人 聖音会」の事業内容等が記載されています。『目的:この社会福祉法人は、多様な福祉サービスがその利用者の意向を尊重して 総合的に提供されるよう創意工夫されることにより、利用者が、個人の尊厳を保持しつつ、心身ともに健やかに育成され、又はその有する能力に応じ、自立した日常生活を地域社会において営むことができるようする。

 

キリスト教の精神及び創設者の創設の精神を受け継ぎ、利用者を支援することを 目的として、次の社会福祉事業を行う。・第一種社会福祉事業  ()児童養護施設鎌倉児童ホームの設置経営  ()知的障害者支援施設綾瀬ホームの設置経営 ()知的障害者支援施設さがみ野ホームの設置経営 ・第二種社会福祉事業  ()子育て短期支援事業(鎌倉児童ホーム) ()障害福祉サービス事業(綾瀬ホーム生活介護、綾瀬ホーム短期入所、 さがみ野ホーム短期入所、向春ホーム、ゆめハイツ)』。

 

「社会福祉法人 聖音会」が運営する社会福祉施設は5箇所で、本部所在地は神奈川県鎌倉市佐助の鎌倉ホームと同じです。聖音会の理事長・小原勉(元神奈川県中央児童相談所長)と常務理事・佐竹敬(佐竹音次郎の孫)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「牧師」「アーク」と伝えられました。これまでの児童福祉施設の調査から、都道府県の児童相談所長が社会福祉法人や施設のトップに天下る仕組になっているように見えます。鎌倉保育園を設立して中国・朝鮮・台湾に福祉事業を展開した佐竹音次郎の背後関係を調べることにしました。

 

大日本帝国軍が構築を目指した大東亜共栄圏の松利権網の一端を担ったのが、佐竹音次郎が成した福祉事業の海外展開だと見ていたからです。「社会福祉法人 聖音会」の公式サイトの「沿革」には、佐竹音次郎が経験した出来事や接触した人物が詳細に記載されており、彼の人脈を知る上で非常に有用でした。その一例が次の文章です。『1903.10. (明治36)音次郎疾患再発し、院の経済は崩壊寸前に陥る。この時、以前、その表札に引かれて小児保育院を訪れ、音次郎から事業の趣旨を聞いていた旧高鍋藩主秋月新太郎がこの様を知り痛く同情した。

 

直ちに大蔵大臣子爵曽根荒助、円覚寺派管長釈宗演らと語らって急場の資として揮毫の書を送り、慈善書画会の開催を音次郎に促す。これにより、第1回の書画会を開き、金300円の収益を得て一時の急場を凌ぐことができた』。佐竹音次郎を経済的に援助した旧高鍋藩主・秋月新太郎、大蔵大臣子爵・曽根荒助、円覚寺派管長・釈宗演(しゃくそうえん)3人の名前が出てきます。秋月新太郎は、江戸時代の最大規模の私塾という工作員養成所の咸宜園(かんぎえん・大分県)で学び、西南戦争に従軍して、貴族院議員に就きました。

 

日本初の孤児院である大分県の日田養育院を設立し松利権の闇の役割を成した内閣総理大臣・松方正義》にありますが、咸宜園が所在した現在の大分県日田市は、内閣総理大臣を務めた松方正義が日本初の孤児院である日田養育院を設立した場所です。日田市は、江戸時代に幕府直轄地の天領であり、松取り(松果体収穫)の闇が深い地でした。曽根荒助は、長州藩士として戊辰戦争に従軍し、フランスに留学した後、陸軍省に勤務します。その後、国会議員となり伊藤博文を補佐して、伊藤博文が暗殺される前に、第2代韓国統監となり韓国併合を進めました。

 

秋月新太郎と曽根荒助は、共に重要な工作員でしたが、私が最も注目したのが円覚寺派管長の「釈宗演」です。Wikipediaには、釈宗演の経歴などの詳細が記されています。『釈宗演(1860-1919)は、明治・大正期の臨済宗の僧。若狭国(現・福井県)大飯郡高浜村(現在の高浜町)の生まれ。日本人の僧として初めて「禅」を「ZEN」として欧米に伝えた禅師として、よく知られている。【出生】1860110日、現在の福井県大飯郡高浜町の農家に生まれた。1873年、建仁寺塔頭の両足院の千葉俊崖師に就き学問と修行に励む。

 

ここで後に建仁寺派管長になった竹田黙雷と知り合い、黙雷とは知友となる。その後釈宗演が臨済宗大学(後の花園大学)第二代学長となった。1877年、再び越渓守謙の命を受けて、備前岡山の名刹曹源寺の儀山善来に就き修禅することとなった。【福沢諭吉の慶応 セイロン】1878年、釈宗演は秋に鎌倉円覚寺の今北洪川に参じて修行。1884年、釈宗演は鎌倉円覚寺内にある北条時宗公を祀る塔頭寺院、仏日庵の住職となり、神奈川県横浜市永田にある寶林寺で「禅海一瀾」を提唱した。1885年、慶應義塾に入った。

 

ここで福沢諭吉とも緑が出来、親交は長く続くこととなった。1887年、慶應義塾別科で学んだあと、当時のセイロン(スリランカ)に行って、仏教の原典を学ぼうとした。師の今北洪川はこれにも猛反対したが、山岡鉄舟や福沢諭吉等からの助けもあり、セイロン行きを敢行した。【円覚寺派管長 万国宗教会議】1892年、116日師匠の今北洪川の遷化に伴い、釈宗演は塔頭仏日庵住職を辞して、円覚寺に住し、円覚寺派の公選により、満32歳の若さで円覚寺派管長並びに円覚寺派専門道場師家に就任する。

 

シカゴ万国博覧会 (1893)の一環として開催された万国宗教会議に臨済宗の代表として出席することとなり、福沢諭吉の賛助も得て、無事に資金も調達して8月に横浜を発ち、十数日の船旅でバンクーバー (ワシントン州)に上陸した。会議は、911日から17日間行なわれた。釈宗演は、二回にわたり演説し、第一回の演説は、「仏教の要旨並びに因果法」と題して、仏陀の教えの基本は因果の法であると説いた。【東慶寺そしてルーズベルトとの会見】1905年、円覚寺派管長職と建長寺派管長職を共に辞して、鎌倉の円覚寺派の東慶寺の住職となる。

 

この時、円覚寺派の管長に就任したのは、宗演の円覚寺修行時代の兄弟子である宮路宗海(相国寺 荻野独園の法嗣)であった。宗演は、以前来日して宗演に参禅していたアイダ・ラッセルの勧めもあって6月に、通訳として鈴木大拙、侍者として千崎如幻を伴い再び渡米することとなった。サンフランシスコのラッセル邸に約9ケ月滞在し、禅の指導をすることとなった。その後、ワシントンに行きルーズベルト大統領と会見して、鈴木大拙の通訳を介して世界平和について語り合ったと言われる』。

 

釈宗演は、日本人の僧侶として初めて「禅」を欧米に広げた禅師であり、臨済宗の円覚寺派管長・建長寺派管長に就きました。その後、円覚寺派管長職と建長寺派管長職を共に辞して、鎌倉の円覚寺派の東慶寺の住職となり、渡米して当時の米国大統領ルーズベルトと面会しているのです。米国大統領ルーズベルトは、本家DSの代表と捉えます。釈宗演は、表の顔は力のある僧侶ですが、裏の顔は八咫烏のトップ工作員と見ています。日米の戦争が絡んだ松利権網について、米国のルーズベルト大統領と会見して裏工作を成す役割だったと推測しています。(つづく)