大友亀太郎像


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22()、大友亀太郎の資料が展示されている「札幌村郷土記念館」に訪問しました。目的の1つは、創成川の源流となる大友堀や大友亀太郎の業績についての情報を得ることでした。そして、もう1つが、大友亀太郎と大友堀の掘削で松取り(松果体収穫)犠牲になった労働者の御魂を上げることと、大友堀や人工河川の創成川によって封じられた「伏籠川」の龍のエネルギーを解放するワークのためでした。札幌村郷土記念館の近くにある大友公園と本龍寺に立寄って光を降ろす予定にしていました。

 

札幌村郷土記念館は、北海道札幌市東区にある博物館です。札幌の開拓者である大友亀太郎や当時栽培が盛んであった玉葱(札幌黄)を中心に、郷土史を語り継いでいく目的で19774月に開設されました。札幌村は、北海道の石狩川下流左岸部にかつて存在した村です。江戸時代から明治時代にかけて移り住んだ和人によって農村が開かれ、1955(昭和30)に札幌市に合併されました。現在の札幌市東区が1902(明治35)当時の札幌村の区域にほぼ一致します。札幌村郷土記念館は、地下鉄東豊線の環状通東駅から徒歩3分程の場所にありました。

 

札幌村郷土記念館は入館無料ですが、記名が必要です。見学者は私たちだけでした。入館すると年配の女性が案内してくれました。1階と2階の展示室には、大友亀太郎の資料や玉葱栽培の農機具などが所狭しと展示されていました。案内係の女性は、大友堀を完成させた大友亀太郎の偉業を詳しく説明してくれました。後から伴侶に聞くと「亀太郎さんが乗り移っていたみたい」と話してきました。私には思い当たる節がありました。案内の女性に「大友堀を建設した労働者をどうやって集めたのか」を質問しました。

 

彼女は一瞬戸惑った感じで「函館の専門の人が・・」と話してくれましたが、合点がいきませんでした。ネット検索では情報は出て来ませんでしたが、大友堀の掘削にあたった労働者は、アイヌの人たちや無宿人、受刑者などの人たちだったと見ています。《無き者にされた御魂が還る》にありますが、北海道開拓の道路建設において囚人を使ったことから「囚人道路」という名前がつけられています。北海道開拓の際のインフラ建設には、囚人たちに強制労働をさせて、その裏で松取りを行っていたと推測しています。

 

「官」の仕事を請負って任務を果たした役人の大友亀太郎にとって自分の業績を誇らしげに語る気持ちはよく分かります。ただ、案内の女性は大きなヒントを残してくれました。それは「札幌黄(さっぽろきい)」という品種の玉葱のことです。「札幌黄」の玉葱は、クラーク博士が去った後、札幌農学校で教鞭をとったお雇い外国人のウィリアム・ブルックスが紹介して札幌村で栽培させたものです。「札幌黄」の玉葱について「国内では需要がなく売れなくてロシアに輸出していた」と教えてくれました。

 

私は直感的に「裏の松製品の取引のカモフラージュに利用した」と思いました。《富山県黒部市から歯舞群島への移住が暗示する表の昆布と裏の松》にありますが、松製品の取引は、表の「販売品」と裏の「松」をセットにして、裏を隠すための隠れ蓑の表を使います。案内の女性から貰った「札幌の玉葱栽培」の資料には、『明治30年頃からロシアのウラジオストックやフィリピンのマニラなどに輸出するようにもなりました』と記述されていました。「札幌黄」の「黄」は「隠す闇」を意味しており、"謎の張り紙の黄色の顔の龍と符合します。

 

2階の展示室には、札幌村の歴代村長の肖像画も飾られていました。女性の説明を受けた後、札幌村郷土記念館に留まっている御魂や闇のエネルギーの解除・統合を意図して光を降ろしました。光を降ろした後、目を開けると周りが明るくなっていました。伴侶に聞くと「いいと思う」と伝えてきました。札幌村郷土記念館の見学を終えて、記念館の裏にある「大友公園」に移動しました。大友公園は、かつて御手作場が開かれ、大友堀が伏籠川に注いでいた場所でした。水遊び場や子供の遊具がある大友公園で土地が開くよう意図して光を降ろしました。

 

ここでも光を降ろした後、周りが明るくなりました。次に大友公園のすぐ近所にある「本龍寺」を訪れました。本龍寺は北海道札幌市東区にある日蓮宗の寺院です。石狩国札幌郡最古の寺刹で、江戸時代に札幌村の鎮守として建立された妙見堂があり、所蔵品には大友亀太郎守護神妙見菩薩像、開拓祖大友亀太郎筆の掛軸、大友家寄進の鰐口などがあります。当時の松取りは、遺体からの松取りであり、仏教寺院と深く関係していたと見ています。本龍寺の本堂の前で、留まっている御魂が上がり、土地が開かれるよう意図して光を降ろしました。

 

OKです」と伴侶が伝えてきました。最後に、もう1箇所訪れる必要があると感じていた場所が、札幌開拓の祖の「大友亀太郎像」のある「創成橋」でした。地下鉄東豊線の環状通東駅から大通駅まで乗車して、大通駅から徒歩で「創成橋」まで移動しました。創成橋の所に置かれた大友亀太郎像に、大友亀太郎の御魂が上がるよう意図して光を降ろしました。「亀太郎さんは待っていたみたい」と伴侶が伝えてきました。創成川で重要なのは、「地下」だと思っていました。人工河川の創成川をつくった表の理由は、水運と湿地の除水ということです。

 

しかし、河川の地下にある地底の光のエネルギーラインを闇にして封印する目的があったと推測しています。そのために、大友堀という利水・治水工事を隠れ蓑にした松取り工作を成したのです。創成川は、現在の札幌市の中心を流れ、東西に分ける川となっています。札幌の地を闇にする今の地下道や地下施設をつくるための伏線だったと見ています。創成川の地下を意図して川全体に光を降ろすと「いいと思う」と伝えられました。久々の巡礼の旅を終えて帰路につきました。しかし、ワークはこれで終わりではありませんでした。(つづく)