Yushima_Seido6


幼稚園の通園バスの置き去り事件や子供の失踪事件など子供に関するニュースで頻繁に報道されています。親や家族にとって大事な子供にもっと目を向けて、今まで普通にやっていた行動様式を変えていく必要があると感じます。幼い子供を預ける形になる「幼稚園」や「保育園」については隠された闇があります。「幼稚園」や「保育園」の多くが松取り(松果体収穫)の闇が潜むキリスト教などの宗教から派生したものだからです。闇の時代は、子供たちの大きな光を封じるための深い闇の教育システムが構築されてきました。

 

子供たちの大きな魂の光を放置していたら暗闇の世界にならないからです。自分の大切な子供は自分の手で育てることが基本になります。お金より仕事よりももっと大切なものがあることを多くの人が気づく機会になっていると感じます。今回、深い闇の教育システムが終わりになることを願って、幼稚園や保育園(保育所)の歴史を調べてエネルギーワークを行うことにしました。まず、202295日に起きた静岡県牧之原市の認定こども園「川崎幼稚園の園児置き去り死亡事件」についてです。

 

家族会の横田早紀江や園児置き去り事件の園長の替え玉が意味する個々人が情報の真偽を見極める時代》にありますが、川崎幼稚園の事件は、多くの人たちが子供や幼稚園に目を向けて隠された闇に気づくことを促していると思います。認定こども園である川崎幼稚園の当時の理事長(園長)はゴムマスクを被った替え玉だと推察していました。替え玉を使った事件を演出することの意味は、子供たちが集まる場所に隠された闇があることに多くの人たちが気づかせる意図があると感じます。

 

川崎幼稚園の前理事長・園長の増田立義と前事務局長の増田太朗(増田立義の息子)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「ゴム。わざとやった」「ペド」と伝えられました。やはり川崎幼稚園の前理事長は替え玉でした。次に、幼稚園の歴史を調べました。wikiには、『幼稚園は、満3歳から小学校就学までの幼児を教育し、年齢に相応しい適切な環境を整え、心身の発達を助長するための教育施設。19世紀前半に活躍したドイツの幼児教育者、フリードリヒ・フレーベルが1840年に設立した、小学校に上がる前の幼児のための学校が最初の幼稚園である。

 

幼稚園という語は、彼の作った学校の名前である De-kindergarten.ogg Kindergarten(キンダーガルテン、フレーベルの造語で「子供達の庭」「子供の国」の意)を翻訳してできた。 ボール遊び、積み木(恩物)、お遊戯、砂場、鳥類を含む小動物の飼育と触れ合い、母親の家事の手伝い、言葉遊び、学級花壇での花や野菜の栽培など、すべて体系的にフレーベルの著作「幼稚園教育学」(玉川大学出版部刊フレーベル全集)に収録されている』と記されています。幼稚園の起源はフリードリヒ・フレーベルです。

 

フリードリヒ・フレーベル(1782-1852)は、ドイツの教育者で幼児教育の祖です。キリスト教のルター派プロテスタントの信徒で、ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチに啓発され、寄宿制の学校を運営した後、幼稚園(Kindergarten)を創始しました。主著「人間の教育」に記した、幼児(人間)の中に宿る神性をどのようにして伸長していけるか、ということに腐心し、子供たちのための教育に一生を捧げたとされます。フリードリヒ・フレーベルの御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「工作員」と伝えられました。

 

日本の幼稚園の歴史についてwikiには、『キンダーガルテンの訳語として「幼稚園」を最初に名乗ったのが、1876(明治9)に開園した東京女子師範学校附属幼稚園で、現在もお茶の水女子大学附属幼稚園として存続し、これが日本で最古(少なくとも官立では)の幼稚園とされる』とあります。日本最初の幼稚園は、現在の「お茶の水女子大学附属幼稚園」です。お茶の水女子大学附属幼稚園は、東京都文京区大塚二丁目にある男女共学の国立幼稚園で、設置者は国立大学法人お茶の水女子大学です。

 

日本で最初に設立された幼稚園で、日本の幼児教育の先駆けとされます。現在も保育・幼児教育分野での研究・教育が行われており、特に倉橋惣三の研究はよく知られます。お茶の水女子大学附属幼稚園の初代園長は、関信三です。wikiには、『関信三(1843-1880)は、三河国幡豆郡一色村(現西尾市)出身の教育者、浄土真宗僧侶である。真宗大谷派安休寺の末子として生まれる。明治5(1872)明治政府の命を受けキリスト教の内情を探るべくキリスト教徒の中に長期にわたり潜入。

 

これは、破邪顕清正運動と呼ばれた活動で、キリスト教が日本に良からぬ影響を与えるのではという危惧から信者たちの監視をしていたもの。彼は長崎、横浜で日本最初のキリスト者たちのグループの中にいたのち横浜弾正台(警察機構)のスパイという扱いになり、これが1872年まで続いた本人は、この初期の活動について自ら語ったり、書き残したものはない。その後、東本願寺の大谷光瑩(現如)上人の随行員としてイギリスに留学。その後、政府のキリスト教解禁のため帰国、東京女子師範学校の英語教師となる。

 

欧州滞在中に見聞したフレーベル教育を活かし、1876年、文部大輔(大臣)田中不二麿、東京女子師範学校摂理の中村正直による抜擢で、日本初の幼稚園(現・お茶の水女子大学附属幼稚園)を創立し、その初代監事(園長)となる』と記されています。関信三は、キリスト教に通じた浄土真宗僧侶としての松工作員だったと見ます。関信三の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「工作員。悪魔崇拝者」と伝えられました。お茶の水女子大学附属幼稚園の現園長・小玉亮子に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「ヒラリークリントンと同じ」と伝えられました。(つづく)